【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(10)亡き息子と共に語り続ける「あなたの命を守って」 魂となり逢える日まで(10)

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 宮城県の北部、三陸特有の深い入り江の奥に女川町がある。コバルトブルーの湾はあくまで静かだが、丸10年になろうとしているいまも、そこに「被災した町」が眠っているという。

「女川湾の底には、津波で流された町のがれきが積もっています。まだ行方が分からないおふたりの女性行員の遺族が潜水士の資格を取り、毎週のように、プロのダイバーに同伴してもらって潜っています。湾にある半島の向こうの海上で3人が見つかって、湾内の浜で1人。8人はいまも行方不明なのです。潜らねば何も見つかりません。手掛かりは年々難しいけれど、望みを託しながら」

 そう語る田村孝行さん(60)、弘美さん(58)夫婦は、サンマ水揚げ日本一を競った漁港の町(人口約1万)を廃墟にした2011年3月11日の津波で、七十七銀行女川支店の行員だった長男健太さん=当時25歳=を亡くした。

 817人の死者、行方不明者があった女川町で、女川支店の犠牲者は12人(うち行方不明2人)に上る。

「高台への避難が防災無線で呼び掛けられた中、支店の屋上にとどまるよう上司から指示された『企業管理下』の遭難でした」

 と2人は語った。

行員12人が犠牲に

〈津波は最初、意外なほど静かに近づいてきました。次第に水は黒くなり、水位もどんどん上がりました。低いビルは水没して姿を消し、たくさんの建物が流されました。マリンパルも3階まで水に浸かりました。

 黒い水は高台にある女川町立病院にも迫り、駐車場の車が次々と流されるのが見えました。

 しばらくして引き波になりました。内陸部に浸水した水が、海に吸い込まれるように、一気に逆流しました。押し波のときとは対照的に、周囲にはゴーゴーという大きな音が響きました。

 写真のように水の勢いは激しく、黒い水が白く泡立ちました。家や車などがいくつもぶつかり、砕けました。水が引いて初めて、近くの鉄筋コンクリートのビルが倒れていることに気付きました〉(2011年8月12日『河北新報』連載「東日本大震災 私が見た大津波」より)  

 記事中のマリンパル女川は、湾の岸壁に面した鉄筋コンクリート4階建ての町商工会館で、町内一の高さだった。会館に残った職員ら4人が屋上の給水塔の支柱にしがみつき、足元まで達した津波に耐えた、という証言があるほどの波高で、海と山に挟まれた狭い平地に密集した町の大半は津波に没した。

 三陸沖から発した津波がV字形の入り江に浸入して水かさを増し、流れる先を山に遮られて、最高水位が海抜20.3メートル(女川町調べ)にも盛り上がった。

 七十七銀行女川支店はマリンパルのすぐ裏にあり、箱形の2階建てで高さ約10メートル、屋上の建屋の高さが13.35メートル。そこに被災当時13人の行員がおり、一瞬で津波にのまれた。生還者はたった1人。近隣には他に4つの金融機関があったが、いずれでも従業員たちはすぐに職場を離れ、町中央の高台で町立病院が立つ堀切山(海抜16メートル)などに避難し、1人の犠牲者も出さなかった。なぜ健太さんの職場だけが、行員たちの命を守れなかったのか。

 筆者が女川町を訪ねたのは津波から4カ月後。その時の光景は目に焼き付いている。茶色いマリンパルだけ外観はそのままだったが、周囲の低いビルは入り口や窓を突き破られ、古い4階建ての江島共済会館がごろりと横倒しになっていた。津波の力で土台をえぐられて倒れ、10メール以上流された。

「津波による鉄筋ビルの倒壊は世界的にも珍しく、学術的価値が高い」

 と、東北大学の学者らは町に計5棟の遺構保存を提案したが、被災した町民の理解は得られず、旧女川交番の遺構を除いて後に解体された。

 マリンパルのすぐ後ろにあった白とこげ茶色の七十七銀行女川支店は1、2階の窓ガラスが失われ、1階の窓は侵入防止のためかトタン板で塞がれていた。他の建物群も土台だけになったり、無残な鉄骨だけの姿になったり。もともと湾の一部を埋め立てた中心部は地盤沈下で水浸しになり、集められたがれきや廃車の山がまわりの空間を埋めており、人影のない灰色の世界だった。  

 今年10月下旬の土曜日。

 あれから9年半余りが過ぎ、かつての町の跡を分厚い土盛りの下に隠した新市街地を、田村夫妻は見つめた。

 そこは堀込山の擁壁の中ほどを通る通路(町有地)の広い一角。まだ造成地の土色とアスファルトの黒しか目に入らぬ中、わずかに心を和ませる花の色が2人の足元にある。オレンジや黄のマリーゴールドなどの寄せ植えプランター、コノテガシワの植木鉢を並べた細長い島のような場所だ。花に囲まれて黒っぽい石を重ねた碑がある。

 一番上の石に彫られているのは、制服姿の男女2人の姿。その下のプレートには、こんな言葉が刻まれる。

〈命を守るには高台へ行かねばならぬ〉

〈2011年3月11日、たった1分で行けた高台堀切山があったのに、なぜ高台の堀切山ではなく 屋上への避難指示が出されたのでしょう〉

〈津波避難は高台へ行くことが大原則 銀行には一言「高台へ逃げろ」と言ってほしかった〉

〈どんなに怖かっただろう どんなに悲しかっただろう どんなに悔しかっただろう どんなに無念だっただろう〉

〈東日本大震災を教訓に職場の命を守れ〉

原因究明を求め提訴

〈語り継ぐ命〉と背面にも彫られた碑は、2015年3月11日、犠牲になった行員たちを慰霊するため、田村さん夫婦ら4組の家族有志が建立した。

 それ以前は、解体された女川支店跡に慰霊の花壇を設けていたが、復興土地区画事業のかさ上げ工事が迫り、町の理解を得て移した。その3年前に女川支店が解体された際、遺族たちは行員たちの形見であり遭難の証として、支店の破片を拾い集めて花壇の下に敷き、移した先の慰霊碑の周りにも供えた。

 制服姿の行員像は「亡くなった時のまま生身の姿を残し、多くの人に伝えたい」と希望し、宮城県川崎町の石彫工房に彫ってもらった。

 建立したうちの3家族は震災の翌2012年9月、原因究明を求め、銀行を訴える裁判を起こした当事者だった。

 健太さんは専修大学を卒業して地元の七十七銀行に入行。仙台の繁華街の支店に新人で配属され、「昼飯の時間もない」と弘美さんにこぼすほど忙しい毎日を過ごした。

 転勤先の女川町では初めて融資担当になり、

「『水産会社の社長らとお付き合いして、町の人たちから可愛がってもらい、落ち着いて仕事ができる。いい町だよ、女川』と、のびのびした表情で私たちに報告してくれた」

 と孝行さんは振り返る。

 元高校球児の父の薫陶で健太さんも甲子園を目指し、キャッチャーとして奮闘。現役メジャーリーガ―のダルビッシュ有投手が活躍した宮城県予選でベストエイトに進んだのが誇りだった。入行3年目で昇格試験に合格し、

「彼女もできて結婚したいと話していた」

 笑顔も気持ちも爽やかな若者だった。  

 慰霊碑に新しい花を供え、線香を上げ、男女の行員像を優しくなでて、夫妻は目をつぶって手を合わせた。孝行さんはまぶたを固く閉じ、手を当てて涙をこらえた。弘美さんが語った。

「健太が見つかったのは、津波から半年以上後の(2011年)9月26日。早朝、湾内で不明の人を捜索していた海上保安庁の船が揚げてくれました。発見の連絡が来るのが怖く、連絡がないままでも地獄が待っていると思っていた。銀行からの電話で石巻市の遺体安置所に夫と駆け付けましたが、会わせてはもらえなかった。着ていたものを机に並べられ、上着と靴はなかったけれど、どれも健太のものでした。初任地で着るために仙台の百貨店でオーダーした服で、田村のネームもあった。それを確認できて『帰ってきてくれた』と思いつつ、『お帰りなさい』と受け入れることはできませんでした」  

 弘美さんが2016年10月11日、フェイスブックの「七十七銀行女川支店被災者家族会有志」に投稿した手記の一部を紹介する。

〈3月11日、午後2時46分女川町は震度6弱を記録、3分ほどの揺れの後に気象庁は大津波警報を発令、女川町は防災無線で「大津波警報が発令されましたので至急高台に避難してください」と繰り返し叫んでいました。

 生還した行員の証言によれば、その頃女川支店内では、外回りに出ていた支店長は不在、本店からも、次席者からも、何の指示も出せずに、ただ茫然と片付けをして、支店長の戻りを待っていました。

 午後2時55分頃支店長が戻り、店舗内の施錠、書類等金庫への格納、屋上の扉を開けろ、屋上から海を見ていろと指示を出しました。

 支店の海側に銀行よりも高い物産館の建物があり、支店屋上からは湾口は見えません。

 支店長の了解を得て帰ったパート従業員1人を除く13人は支店長の指示により(海抜)10mしかない屋上にとどまったのです。

 息子は、「時間があるから向こう側の高台へ行ける。」という言葉を(注・生還した同僚に)残していました。

 信頼する会社と日頃から慕う支店長の指示に疑問を持ちながらも息子はその指示に従わざるを得ませんでした〉

届かなかった遺族の訴え

 堀切山の裾にある慰霊の花壇から、女川支店のあった場所まで歩いた。ごくわずかな距離だ。被災後、現地は約6メートルのかさ上げが行われた。商業・業務用地として新たな区画が整備され、往時の町を想像するよすがもない。

 周囲には、「おんまえや」という地元スーパーが2020年3月、真新しく再開店したばかり。ここでも従業員ら9人が犠牲になり、一角に立派な慰霊碑が建立されている。

「このあたりだね」

 と2人は支店跡が眠る場所に立ち、現・町地域医療センターが立つ堀切山を見上げた。すぐ目の前だ。

 児童74人と教職員10人が津波にのまれた宮城県石巻市の大川小学校跡で、筆者も1分ほどで登ることができた裏山を見上げた感覚に似ていた。

「女川支店から町の指定避難所だった堀切山まで約260メートル。歩いて3分、走れば1分で着けた。それで助かる命でした」

 と、弘美さんは訴えた。

「屋上にいた行員たちに向かって、堀切山に避難した住民たちが『こっちゃ来い』『早く逃げろ』『上げってこい』と叫んだそうです。リアス式海岸の津波の恐ろしさを皆、分かっていたから。地元採用の女子行員たちと顔なじみの人も多かった。支店の屋上で津波にのまれるまでを、多くの人が見ていたんです。堀切山に避難した人たちは600人以上いました。そこから4階建ての町立病院の中へ逃れ、地続きの山の神社に登り、ほとんどの人が無事に生命を守り切ることができたのです。健太ら行員たちは、理不尽な死だったとの思いがあります」                       

 銀行側から犠牲者の家族会への説明会、家族会の問いと要望、それを受けた話し合いが2011年4月から行われた。

 だが、銀行の、

「災害等緊急時対応プランに『指定避難所または支店屋上など安全な場所へ避難』とあり、現場の判断はやむを得ない」

 という説明に、誰が見ても最も安全な堀切山(町の指定避難所)に勝る高台はなく、何を最優先に何を守ろうとしたのか――と田村さん夫妻は納得できなかった。

「2012年3月に合同慰霊祭が開かれたが、銀行側から追悼の言葉はあっても、原因には触れられぬまま。被災後1年を切れ目にして死亡退職とされ、健太らの最後を知る『証人』である女川支店の建物も取り壊され、私たちが求めた検証も行われず、これで終わりにされてしまうと思った」

 2012年9月11日、裁判を起こしたのは田村さんら行員3人の遺族。銀行は2009年に改訂した「災害等緊急時対応プラン」で支店屋上を避難場所に加えていた。それ以前に指定していた堀切山よりも低く、「津波から我が身を守るには、まず高台に避難することが大原則」(内閣府津波避難ビルガイドライン)であり、「人命の安全確保を最優先しなかった」と訴えた。

 だが、2014年2月の仙台地方裁判所判決はそれを退けた。

「宮城県に予想される大津波の高さは6メートルとされ、支店がある女川町の過去最大の津波の高さは4.3メートル。巨大津波は予測困難」

「銀行側は、各支店の屋上の高さが宮城県の地震被害想定よりも十分に高いことを確認した上で、避難場所の選択肢を広くする観点から屋上も避難場所の1つとして追加した」

 と、大原則を無視したかのような判断にとどまった。さらに、

「企業は経済合理性の観点で活動している。行政機関に比べ、最悪の事態を常に想定して高い安全性を労働者に対して保障すべきだとまでは言えない」

 と冷徹な線を引いた。

「人の命を経済合理性の犠牲にしていいのか」と遺族たちは失望し憤り、仙台高等裁判所に控訴し、

「企業には、働く人の安全に配慮する義務がある」

 とも訴えた。

 しかし、2015年4月22日の判決は、

「女川支店長が大津波警報発令後早期に堀切山への避難を指示していたとすれば、被災した行員らの命が救われた可能性が大きかった」

 とまで述べながら、支店屋上への避難は妥当との判断を変えず、遺族たちは再び敗訴。最高裁判所に望みを託したが、門前払い同様に棄却された。

「いのち」つなぐ新しい人生

 健太さんのお葬式を終えて2011年が過ぎ、翌年の6月ごろだと孝行さんは記憶している。三陸特有のヤマセの海霧に、女川町の廃墟の夕景がぼうっとかすんでいた。

 解体された直後の七十七銀行女川支店跡に、「このままではすべてが消えてしまう」とプランターの花壇を遺族の有志と設け、そこに弘美さんとたたずんでいた時だ。近くで横倒しの姿の江島共済会館を眺めている人たちがいた。

「『どこから来たの』と尋ねると、関西だという。津波が奪い去った後の景色なんだと伝えると、声もなくびっくりしていた。女川支店の跡に連れていき、健太たちに起きたことを教えてあげた。何も知らずにやって来る人が多いことを知って、1人1人に声を掛けるようになった」  

 田村さん夫婦の新しい人生も、この日から始まった。以来、年に約70回も慰霊の花壇の前に立つ。生前、週末ごとに実家(大崎市松山町)に戻った健太さんが女川へと向かった片道50キロの道を車で、健太さんの目に映った風景を旅するように毎週のようにたどる。女川支店跡から堀切山の裾に場所は変わっても、いつも慰霊の花壇の前で、全国から訪れる人たちに語ってきた。

「津波が押し寄せてきた日に、この町で同じ仕事をしていたら、あなた方はどうしていただろう?」

 慰霊の花壇を取り巻く若い来訪者たちに、孝行さんはこう問いかける。

「みんな、どきっとした顔をして『自分1人だけで職場から逃げられない』と言う。でも、親の立場からすれば『支店長の言うことなど聞かず、逃げればよかったでしょ』と言いたいんだ。健太は人一倍正義感が強くて真面目だったから」

「1人では逃げられない、というのは組織に入っている人の感情。健太らのように『上司の指示・命令に従う』という誓約書を出させられる企業もある。でも、それは『津波てんでんこ』に逆行していることではないか」

「津波てんでんこ」とは、東日本大震災で自らも被災した大船渡市の津波災害研究家、山下文男さん(故人)が、明治、昭和の三陸大津波で家族の多くを亡くした体験から「家族もてんでんばらばらでいいから、自らの命を第一にしてまず逃げろ」と繰り返し提唱した教訓だ。

「万が一の時には、自分の判断で逃げていいんだよ。健太の職場で起きたことを繰り返さぬよう、会社の中、組織の中で話し合って変えていってほしい。人の命を最優先に守る企業、社会をつくっていく。それが、あなた方の時代なんだ。いつも、若い人たちにはそう話し、考えてもらう」

 そして、孝行さんはこう続けた。

「何度も訪れて応援してくれる人も増えた。震災から9年、10年の区切りなんてない。そのたび健太から、いろんな人との出会いをもらうから。俺の口を通して息子が怒りながら語り続けているから。『ダメだ、これではダメだ! 自分たちの死を無駄にしないでほしい』と」

〈大川小 事前防災に過失 市教委の責任も認定 津波浸水『予見可能』〉

「学校管理下」でなぜ、74人もの大川小の児童が犠牲にならねばならなかったのか――。遺族たちが問うた控訴審の判決(2018年4月27日、仙台高裁)を報じた『河北新報』1面の見出しだ。

 判決は「学校が事前に高台の避難先を決めておけば、事故を回避できた」とし、それを怠った危機管理マニュアルの不備や、地域の実情に応じた見直しの指導義務があった市教委の責任も認定した。ハザードマップの正しさについても地域から検討すべきだったと指摘し、学校・市教委の組織的過失を認めて、ハザードマップ依存の事前防災の在り方も否定した。子どもたちの命を守るために、大人は地域の「防災」をめぐる現状や常識も疑い、あらゆる努力を講じねばならない責任を示した判決だ。

 ならば、「企業管理下」で働く人々の命を守るべき企業の責任にはどんな違いがあったのか。

健太に導かれて

 白、ピンク、紅色のコスモスが山のようになって咲いていた。大崎市の田村さん夫婦の家から車で20分ほどの松島町品井沼。弘美さんの実家に住む人がいなくなったことから、母屋の一部を改造して2019年5月、「遠来の人に寄ってもらって話をし、地域の人と“お茶っこのみ”を楽しむ」スペースを開いた。

 孝行さんは長年の職場を早期退職し、2人で実家に通って畑を耕しサツマイモや大根を作り、これからを語り合い、ここを拠点に新しい活動を始めた。

「健太いのちの教室」という社団法人を設立したのだ。

 お茶っこのみスペースはソファーとパソコンが置かれ、広い壁には、夫婦が女川町で取材を受けた新聞記事や寄贈された大判の報道写真の数々が、津波と企業によって引き裂かれた家族の悲劇、屈することのない闘いと再生の記録のように展示されている。  

〈健太の姿形は見えなくなったけれど、今も我が家の中心に居てくれます。子育てを通して沢山の喜びと学びを得たように、息子とこれからも一緒に学び歩んでいきたい。健太のいのちから学んでいることを多くの皆様と共有し、学び合わせて頂く場にしたい。その想いから「健太いのちの教室」と命名しました。息子の人生は、この活動を通じてこれからも続くと思っています。健太との再会の時は、「あなたのいのちは、大きな役目を果たしたよ!」と報告します〉

 孝行さんは「健太いのちの教室」の代表人の言葉をこうつづった。

 社団法人の世話人には、1985年の日本航空ジャンボ機墜落事故(520人死亡)の遺族、美谷島邦子さんをはじめ、JR福知山線事故(2005年)、シンドラーエレベーター事故(2006年)など、企業による大事故の遺族たちが名を連ねる。

 田村さん夫婦は、日航機墜落現場の「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)の慰霊登山には2015年以来参加してきた。阪神大震災(1991年)の慰霊の日の神戸でも祈ってきた。苦難の経験を共にする遺族たちと縁を結んで、力をもらってきた。  

「人生はすっかり変わったが、健太が導いてくれた道だった。息子の命をつなげられることを、すべてやってやろうと一心に歩いてきた」

 と孝行さん。

「健太は夢に出てこないんです。『まだまだ思いが足らない』と言われているよう」

 と弘美さんは言う。

 新型コロナウイルス禍が広がった2020年は9月末まで半年、語り部の活動を休止した。しかし、企業研修の依頼が寄せられるようになり、ある全国チェーンの学習塾はオンラインで163人が参加した。女川町を訪れた社員が田村さん夫婦と出会い、話を聴いた社長が企業防災の必要を社内で説いてくれた。

 健太さんが卒業した専修大法学部の3、4年生にオンラインで講話をする機会も暮れに生まれた。学生が6グループになっての議論に孝行さんは、

「災害発生を想定し、あなたが銀行の支店長の立場だったら、どうしますか」

 と問うた。それは、若者たちへの終わりのない問いだ。健太さんと一緒に問い続ける。問い続けなければならない。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年12月28日掲載

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