「Switch対PS5」の今振り返る「ゲーム機」興亡史 日立やパナも参戦していた
今年の年末商戦も「Nintendo Switch」(任天堂)や「プレイステーション5」(ソニー)などの家庭用ゲーム機が売れている。1960年代までは存在しなかったが、今や生活と切り離せない。テレビは番組を見るだけのものではなくなった。各ゲーム機メーカーの興亡を振り返る。
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世界初の家庭用ゲーム機は1972年に米国のマグナボックスが発売した「オデッセイ」。米国での価格は100ドル(当時約3万6000円)だったが、日本では5万8000円で売られた。当時の大卒初任給は約5万2000円だから、贅沢品にほかならなかった。
開発チームのメンバーは軍事用精密機器メーカーの社員たちで、当時としては完成度が高い代物だった。ファミリーコンピューター(ファミコン)のカセットにあたるカードを差し替えることにより、テニスやアイスホッケー、光線銃など12種類のゲームが出来た。
外付けのコントローラーが2つ付いていたところもファミコンと同じ。半面、画像はモノクロで効果音はなし。背景の画像もなかった。
このため、例えばテニスをやる時にはオーバーレイと呼ばれるシートをテレビ画面に貼り付け、自分たちでセンターラインを作らなくてはならなかった。
光線銃は銃口から出る電球の光を、標的に組み込まれた太陽電池が感知し、反応する仕組み。単純だった。そのメカニズムは1970年に任天堂が発売した「光線銃SPシリーズ」(2500円~)と同じだ。
日本での販売量は僅か。そもそも高価だから買える人は少なかった。現在もネット市場で中古品が3万円程度で売られている。コレクション用だ。
1975年、国産初の家庭用テレビゲーム機「テレビテニス」(1万9500円)がエポック社から発売された。もっとも純国産ではなく、マグナボックスと技術提携した上で製造された。
画像はやはりモノクロだが、こちらはセンターラインなどの背景があり、効果音も付いていた。ただし、テニスのスコアは内部では数えられず、本体にスコア記録用のダイヤルが付いていた。
テレビと本体は電波(UHF波)で繋いだ。ケーブルはなかった。これは画期的だった。半面、コントローラーはファミコンのような外付けではなく、本体に付いていたので、やや使いにくかった。
やはり贅沢品で、持っている家庭は限られていた。発売初年度に約5000台売れたとされている。
1976年、任天堂が動き始める。三菱電機から「カラー表示も可能なテレビゲーム用LSIを作った」と知らされると、同社と家庭用ゲーム機の共同開発に乗り出す。
完成したのが任天堂にとって初の家庭用ゲーム機「カラーテレビゲーム15」(1万3850円)で翌77年に発売された。
テニスなど15種類のゲームが内蔵されていた。カセット方式ではなかった。もちろん画像はカラー。効果音もあったし、スコアも表示された。
ただし、テニスやバレー、ピンポンなどのゲームを、シングルとダブルスで2種類と数えたから、実際のバリエーションは多くなかった。
同時発売された廉価版の「カラーテレビゲーム6」は6種類のゲームしか遊べないが、9800円で1万円を切った。当時の山内溥社長(故人)が「なるべく安く」と指示したためだ。家庭用テレビゲーム機が身近になり始める。
日立、パナソニックのゲーム機も
1977年は家庭用ゲーム機の戦国時代だった。今や重電メーカーの印象が強い日立まで「日立ビデオゲーム VG-104」(2万4800円)を発売。出来たゲームはテニス、スカッシュ、ホッケー、トレーニングの4つ。「技術の日立」の割りには平凡な上、エポック社と技術提携しての発売だった。
同年、東芝も「東芝ビデオゲームTVGー610」(9800円)を発売する。ピンポンやテニス、サッカー、フリーピストル(銃は別売りで3800円)、クレー射撃が遊べたが、やはり目新しさに欠けた。こちらもエポック社と技術提携していた。
松下電器(現パナソニック)が参戦したのも同年。「Nationalテレビゲーム4種目 TYーTG40」(2万4800円)を発売した。遊べたのはモノクロ画像のテニスやスカッシュなど4種類。日立、東芝と同様に決め手に欠け、販売は苦戦した。
これで終わらず、バンダイも「TV-JACKシリーズ」を発売する。タモリ(75)をCMに起用し、派手なPRを繰り広げ、話題になった。
このゲーム機は他社製品とはかなり違った。値段を高く設定したのも特徴の1つ。最上級機の3000は3万8000円もした。
その分、魅力的であり、3000はホッケーやテニスといった定番ゲームのほか、当時としては斬新だったレースゲームも内蔵していた。ほかに別売りのゲームカセットも利用できた。
3000の人気を受ける形で翌78年には上級機の8000が5万9800円で発売される。この年の大卒初任給は約15万円。こうなると、社会人でも簡単には買えない。
その分、スペックは極めて高く、例えばグラフィックは256×192ドット。26年後の2004年に発売された携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」(任天堂)と一緒だった。
とはいえ、あまりに高価だったためか、販売面は不調。本体が普及しなかったため、売り物になるはずだった別売りのゲームカセットはオセロなど6種類しか発売されなかった。
1980年、エポック社が「テレビベーダー」(1万6500円)を発売。当時、大ブームだったタイトーのゲームセンター用ゲーム機「スペースインベーダー」を家庭向けにアレンジした。もっとも、処理能力に限界があったので、攻めてくるインベーダーは1列しか表示されなかった。
1981年、エポック社が「カセットビジョン」(1万3500円)を発売。それまでのカセット式のゲーム機はいずれも高かったが、低価格化に成功する。
買いやすかった上、カセットの交換によって、「きこりの与作」や「ギャラクシアン」などゲームセンターで人気のゲームが出来たことから、たちまちヒット商品となる。一時は家庭用ゲーム機市場の7割前後を獲得したとされている。
1982年、バンダイが「インテレビジョン」(4万9800円)を発売。80年にマテルが米国で発売し、ヒットした製品だった。
家庭用ゲーム機としては初の16ビット機であり、高性能が売り物だった。カセットも豊富で、野球など22種類あった。
しかし、値段が「TV-JACKシリーズ」と同様に高かったため、これがブレーキとなる。タモリに続いてビートたけし(73)をCMに使い、大々的に宣伝したものの、売れ行きは伸び悩み、販売終了となった。
1983年、セガが「SG-1000」(1万5000円)を発売。8ビット機で、当時のMSXパソコン(マイクロソフトなどが提唱した当時のパソコンの統一規格)と同程度のスペックを誇った。
キーボード付きのSC-3000も同時発売。こちらはMSXパソコンそのもので、3万3800円だった。
SG-1000は詰め将棋や麻雀などゲームセンター並みのゲームが20種類楽しめた。ほかに教材カセットを使えば学習にも使えたし、作曲も出来た。
安価で高性能なのでヒットが予想されたが、ここで強力なライバルが現れる。任天堂の「ファミコン」(1万4800円)だ。発売日は同じ7月15日だった。
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