【2020年に旅立った著名人】癌手術後に酒を飲もうとして…「内海桂子」が見せた豪快な芸人の生き様
昨年、97歳を目前にした内海桂子さんは本誌の「週間食卓日記」に登場してくれた。身体に様々な異変を感じつつ現役最高齢の漫才師として舞台に立ち続け、食欲も旺盛だった。ふだんは、浅草の東洋館で出番を終えると他の出演者と一杯飲んで帰っていたとは驚く。(「週刊新潮」2020年9月10日号掲載の内容です)
速報羽生結弦との「105日離婚」から1年 元妻・末延麻裕子さんが胸中を告白 「大きな心を持って進んでいきたい」
24歳年下の夫、成田常也さんが食事の支度はもちろん、マネージャーとして隅々まで気を配っていた。
女優、浅香光代さんは言う。
「浅草の顔でした。大看板なのに威張ることなんてない。飾らなくて心が温かい。芸人はずっと働くものだと、100歳でも舞台に立つ気持ちでいましたよ」
コメディアンの世志凡太(せしぼんた)さんも言う。
「お客さんの雰囲気をつかみ、芸を変えていました。常に新しいものを取り入れる工夫をし、世の動きをちゃんと追っていたのです」
〈年寄りを いたわるばかりが 政治じゃないよ 生かして使えよ 老いの智恵〉のような都々逸を作る。87歳からツイッターを始めた。道理に合わないと思うことをズバリつぶやき、夫に打ち込んでもらう。幅広い世代が共感し、49万人以上がフォローする人気だ。
1922年生まれ。本名は安藤良子。両親は両国近くに住んでいたが駆け落ちし、桂子さんは銚子生まれの東京育ち。父親が博打に溺れ、母親は再婚。生活は苦しく、尋常小学校3年で神田の蕎麦屋に子守奉公に出た。
桂子さんは内職で貯めたお金で三味線と日本舞踊を習う。芸は身を助けると考えた通り、漫才の代役を頼まれて38年に初舞台。評判を呼ぶが巡業中にお手つきに遭い、男児が誕生。戦地慰問をした時の相方との間に女児も生まれ引き取る。
50年、14歳年下の内海好江さんと「内海桂子・好江」を結成。当時を、桂子さんは〈好江ちゃんには、何としてもいっぱしの芸人になってもらわなきゃならなかった。鉄は熱いうちに打てだから、ずいぶん厳しくもしてきた。周りから鬼ババだの何だの、ずいぶん言われましたよ〉と本誌に語った。2児を女手ひとつで養うために必死だった。
演芸・演劇評論家の矢野誠一さんは言う。
「芸人が奔放に生きていた時代を桂子さんは身をもって知っています。その雰囲気を持ち自分を押し出していく桂子さんに対し、好江さんは当世風の小気味良さがありました」
82年度には漫才コンビとして初の芸術選奨文部大臣賞を受賞。快挙だった。最高の女性漫才コンビは、97年に好江さんが胃癌のため61歳で亡くなるまで活躍した。
この後、人生の相方として支えたのが成田さんだ。桂子さんの熱烈なファンで、87年に思い募って直接電話し、その後、求婚。24歳年下とは娘と同じ年、息子には自分より年下の父親なんて納得がいかない、と言われたが、99年に結婚した。時に桂子さんは77歳。
2007年には乳癌を克服。本誌の記事で取材したノンフィクション・ライターの西所正道さんは言う。
「癌に動じない大きな人でした。手術後に麻酔から覚め、夫と酒を飲もうとして医師に見つかり未遂に終わった話もしてくれました。術後に痛みがあるのは当たり前と鎮痛剤を飲まず、ファンが車椅子姿を見たらもう終わりだと思うだろうと考え、歩いた。自分を甘やかさなかったのです」
泣き言をいう暇があれば、まずは動いてみる、が信条。今年1月まで舞台に上がっていたが、体調を崩した。4月には成田さんも脳出血で倒れてしまう。
8月22日、多臓器不全のため97歳で逝去。入院していた成田さんも、近親者で営まれた葬儀に参列できた。
「幼い頃から世間にもまれ、人の心の裏も表も見てきた桂子さんは、苦労も全部芸になっていた。芸人に芸がなくなってきたねと心配しながらも浅草に期待していました」(浅香さん)