世界選手権10連覇「中野浩一」が語る“天才のペダリング”(小林信也)
「競輪選手になるのか」
高校の同級生が言った蔑みの言葉がずっと耳に残っていた。中野浩一が言う。
「悔しくってさ、“見てろ、アッという間に稼ぐからな。お前らの1年分、3カ月で稼いでやる”って捨て台詞を吐いたんだ」
強くなるしかない、どうやったら勝てるか、その一念だった。
「中学、高校と陸上部。高校2年のインターハイは400メートルリレーで全国優勝。陸上の推薦で大学に入って、将来は体育の先生になるか、実業団で陸上を続けようと考えていた」
高3の春、自転車通学の途中、トラックにはねられた。大きな怪我はなかったが、その後の試合で太もも肉離れに見舞われた。
「何か事故の影響があったんだろうね」
高校3年を棒に振った。推薦入学の話も進まず、卒業後の進路が白紙になった。
「ジャンボ尾崎さんが大活躍しているのを見て、ゴルフもいいかなと考えた」
高3の秋、競輪選手だった父・光仁にそんな夢を話すと、父は真剣に考えてくれた上で、言った。
「お前がゴルフで一人前になるまで、面倒見てやれるかどうか……」
父は40代に入り、そろそろ引退が視野に入る時期だった。そして、
「一度、乗ってみないか」
息子を自転車に誘った。
「初めて乗って2日目くらいに1000メートルのタイムを計ったの。そしたら周りがみんな大騒ぎしている。これはすごいって。オレはえらくしんどかったけどね。ゴール後はケツ割れしてもう」
いきなり1分21秒台を記録した。競輪学校に受かる目安の17秒台を練習もせず射程内に捉えた。
「そう言われて、その気になったんだね」
父やその仲間たちが大器と見込んだ中野は、期待どおりの成長を見せた。
「デビュー戦で優勝。予選、準決、決勝の3日間で手取り11万か12万もらった」
当時の高卒公務員の初任給は月約6万円。たった3日で2カ月分を稼いだ。その後順調に賞金獲得額を増やし、6年目には日本プロスポーツ史上初めて、1億円の大台を突破する。
完璧なペダリング
中野だけがなぜ、そんなに速いのか? 当時話題になった太ももの太さ、その筋力が強さの秘密なのか?
「ペダリングは押すと引くの繰り返し。山登りするとわかるけど、引く力がすごく大切です。人より速く回す、綺麗に回せば勝てる」
ペダリングの技術こそ、中野浩一の原動力だった。
「競輪学校にデータが貼ってあるけどね。一番上と一番下の力がオレはゼロになる。切り替えがスムーズなんだ。タイミングが狂うと、逆にブレーキになるでしょ」
押す、引くのリズムにズレが生ずれば、そこにロスが生まれる。ところが中野のペダリングは完璧で、ゼロと100が見事に繰り返される。それは意図して磨いた技術ではない。誰よりも長く激しく走る中で、自然に身につけた天性の感覚。
中野は1977年、ベネズエラで開かれた世界自転車選手権のスプリントで初優勝を飾った。これで世間が注目してくれると期待した。ところが翌朝のスポーツ新聞は、「世界記録に並ぶ755本塁打」を放った王貞治の記事一色だった。翌年、世界V2を飾って帰国した日の一面も「王の800号」だった。
世界選手権を連覇する中で最強のライバルと記憶されるのはシングルトン(カナダ)だ。82年、6連覇の年。1本目はゴール前の激しい接触で両者とも転倒。中野は意識朦朧の状態に陥った。再レースの1本目はシングルトンが逃げ切る。2本目、またもゴール前で激しく争い、シングルトンが右ヒジを出してきた。中野が巧みにかわすとシングルトンが転倒。右ヒジを骨折し競走不能となり、中野が勝った。
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