身の毛もよだつ写真に絶句……浪費と浮気の果てに夫に子供を連れ去られた妻の後悔
スナックで働き出すと逆に夫が浮気を疑い出した
11年に次女を出産した時には家計は火の車で、亜希子は日中働いた後、午後10時からスナックでアルバイトをしなければならなくなった。
「夫は時給が2000円と聞くと、『いいじゃないか』と賛成した。義母も『若いうちにしかできない仕事だから頑張りなさい』と反対しなかった」
この頃、亜希子は生命保険会社を辞め、不動産会社に転職していた。
「この頃の私は、完全にうつ状態になっていました。昼の仕事から夕方、家に戻り、子供たちの食事、入浴を済ませてからの夜のバイトです。一方で、夫の浮気はどんどんエスカレートしていく。昼の仕事が長引いたりすると、夫は子供たちを連れて、浮気相手とその子供たちと一緒に食事するなど、やりたい放題でした。次第に私は家庭に居場所を見出せなくなり、朝食の準備や保育園の送りはやり通しましたが、夜は夫と夫の実家に任せてしまうようになった。すると……」
今度は夫が亜希子の浮気を疑い出したのである。
「相談相手だった職場の男性と一緒に、夫の浮気現場を抑えようと、夫の跡をつけたことがあったのですが、夫がその人との関係を勘ぐったのです。その人と私が会っていたことを知った夫が、烈火のごとく怒り出して、私を玄関の外に投げ飛ばすという暴力沙汰も起きた」
連れ去りを決行したが、逆に連れ去られてしまった
もう離婚しかないと思った亜希子は、16年11月に、夫と同居しながら、家庭裁判所に離婚調停を申し立てた。
「『別居もしないで離婚調停ですか?』と驚かれたくらいレアなケースだったようです。そのくらい私は、この問題について無知でした。子供たちは夫に懐いていましたし、ちゃんと家族が話し合って納得するかたちで離婚したいと、バカ正直に考えていたんです」
離婚調停が不調に終わって間もなく、亜希子は子供を連れて家を出る決心を固める。だが、計画は準備不足で失敗に終わってしまう。
「荷物をまとめている途中、夫にバレてしまった。そして、一番下の次女が預けられていた保育園に2人が駆け込んで子供を奪い合う事態になったのです。警察を呼んで、すったもんだした挙句、次女は夫の実家に連れて行かれました。その後、小学1年生だった長男も連れ去られ、唯一、小学2年生だった長女だけが『ママといたい』と私についたので、私と長女だけがアパートに別居することになりました」
本連載を読んできた読者ならば、彼女が明らかに戦略に欠いていたことがお分かりであろう。是非は置いて、彼女にはほぼ確実に子供を奪われずに別居・離婚ができる方法があった。
まず女性相談所に駆け込み、夫のDVを訴え、シェルターを確保すべきだった。そうすれば、夫がいくら役所で騒ごうとも住民票が閲覧できなくなり、所在がつかめなくなる。そのままひっそり別居生活を積み重ねることで、子供の「監護者」としての権利を勝ち取れる実態が、日本の法制度の中に存在することを彼女は知らなかったのだ。
もっともこのような「連れ去り」勝ちな現実があるからこそ、日本社会において、子と親が断絶してしまう悲劇が蔓延しているのであり、深刻なDV被害で逼迫している状況でない限り、このような「連れ去り」は間違っている。とはいえ、いま現実として連れ去られた側に立たされた彼女は、中途半端な連れ去りをしてしまったことを後悔しないでいられないのだ。
「実は、当時私は女性相談所にも相談済みで、相談員からシェルターに入ることも勧められていました。けれど、子供たちが友人たちと離れたがっていない様子を知り、思いとどまっていたのです。シェルターに入れば、子供たちは転校を余儀なくされます。長女は保育園時代に仲がよかった友達と中学校で再会することを楽しみにしていました。次女も保育園の友達とずっと離れたくないと言っていましたので……」
次女が楽しみにしていた遠足
そうして、夫婦のみならず兄妹までも別々に暮らす新たな生活が始まった。亜希子は毎日のように夫の実家に通い詰めて、2人の子供を返して欲しいと訴え続けたが、まったく取り合ってもらえなかった。次女は『パパに殴られる。ママと一緒に帰りたい』と泣き出したことがあったというが、
「この時も私は強引に連れ戻すことはしませんでした。次女が楽しみにしていた保育園行事の遠足が控えていたからです。それまでは穏便に話し合いを継続していこうと考えました」
結局、事態が一向に進展しなかったため、17年5月に亜希子は、長男と次女の引き渡しを求める審判と、3人の子供の監護者を自分と定めるよう求める審判を家庭裁判所に申し立てた。同時に2人への面会調停も申し立てた。
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