スポーツ選手への「無邪気な応援」の怖さ 身体へのダメージ、セカンドキャリアの不備に無自覚な人々(古市憲寿)

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 昔から運動が嫌いだった。体育の授業はもちろんスポーツ観戦にも興味がなかった。その理由が最近、ある小説を読んで初めて整理できた気がする。渡辺浩弐さんのショートショートを集めた『2020年のゲーム・キッズ』(星海社)だ。

 舞台は世界的に疫病が流行した2020年の、さらに後の時代。人々は物理的な接触を忌避し、最新テクノロジーを活用した「新しい生活様式」のもとで暮らしている。

「無観客試合」という作品がある。主人公は嫌われ役のボクサー。面白いのは、応援にまつわる状況である。プロスポーツはオンライン観戦が当たり前になった代わりに、課金応援ができるようになった。ただ競技を観るだけではなく、観客はお金を払うことで試合に影響を与えられるのだ。

 たとえば野球ならば風を起こすことができる。何万人の観客が課金をすることで勝敗までが変わってしまう。さらに格闘技は露骨で、選手は全身にパッチを貼り付けていて、課金した観客は敵側に電気ショックを与えることができる。

 小説の語り手曰く「昔のスポーツファンはずいぶんな馬鹿だった」。応援といいながら、ただ無意味に唾を飛ばし、病原菌を撒き散らしていただけと手厳しい。

 しかし物語で描かれる近未来は、実は現在と地続きだ。この小説が問い掛けるのは「スポーツの応援とはパワハラなのではないか」という不都合な真実である。

 スポーツファンは無邪気に若い選手を応援する。ひたすら競技に打ち込む姿に心を打たれ、さらに強くなって欲しいと願う。ひたむきにスポーツに向き合う選手と、純粋な気持ちで応援するファン。一見すると非常に美しい構図である。

 しかし若い時期をスポーツに捧げることで、身体を痛め、人生を狂わせてしまう選手は少なくない。

 サッカー選手の平均引退年齢は26歳前後だという。当然ながら一般に引退後の人生の方が長いわけだが、誰もが指導者や解説者になれるわけではない。不遇なセカンドキャリアを送っている話もよく耳にする。

 もちろんこの社会では、本人の希望が最優先だ。どんな人生を歩むか、どのような職業に就くかは当事者が決めることだ。スポーツ選手になりたい人を止める権利はない。自己決定と自己責任は、近代社会の基本原則の一つである。

 だが純粋な応援が、結果的に選手を追い込んでしまうことがある。というか、それは応援という行為の宿命だ。善意から発せられる「頑張れ」の声を受けて、スポーツ選手は身体や時間など、貴重な資産を犠牲にしてでも戦おうとする。

 もちろんアイドルへの応援にも、受験勉強を頑張る生徒への応援にも同じことが言える。しかし特にスポーツでは、身体に不可逆的な犠牲を強いる。しかもセカンドキャリアの整備が不十分ときたものだ。

 スポーツの世界は非常に残酷である。中でも応援という行為は残酷だ。そのことにどれだけの人が自覚的なのだろうか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年12月17日号掲載

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