東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実
“鬼の大松”は虚像
一方、日本社会は、女性がそこまで情熱を燃やしてスポーツに打ち込む姿に驚嘆しながら、好意的な眼差しが大勢を占めていた。日紡貝塚の労組が問題にする動きはあったが、社会の空気は“東京五輪”“金メダル”。勝利への憧憬はすべてを駆逐した。
東京五輪の前に出版された大松の著書『おれについてこい!』はベストセラーになり、流行語にもなった。だが私は数年前、東洋の魔女たちの回想インタビューを読んで“鬼の大松”も“おれについてこい”も実態とはかけ離れたレッテルで、当時の社会の空気が作り出した虚像ではないかと気づかされた。日本の社会がそうした方向性を求め、作りあげたように感じるのだ。谷田が振り返る。
「朝まで練習した日もあります。厳しかったけど大松監督とは冗談を言い合える関係でした。私が“必勝”と書いた鉢巻きをして監督のところに行き、“難波でこんな映画やってます”って言うと“ほな、行く用意せい”てな感じでした。
監督が好きなのは邦画なら時代劇、洋画なら西部劇。私たちは何でもいい。映画館に入って電気が消えたら寝るだけですから(笑)」
谷田が2年前に書いた著書『私の青春 東洋の魔女と呼ばれて』(三帆舎)を読むと、当時の空気が伝わってくる。バレーを始めたのは、コーチをしていた兄(三男)の影響だ。
〈兄は「バレーボールなんかせんでええ。へたくそなお前が何バレーボールしてんねん」って言ってました。〉
走らされてばかりだった。
〈辛いバレーボールを嫌で辞めたくても、兄貴が怖くてやめられなかった。〉
進学した四天王寺高の監督は後に日本代表を率いる小島孝治だった。
〈私は159センチと小さかったですからね。ボールさえ触らせてもらえずに1年間はジャンプばっかりさせられました。バスケットの網がぶらさがってますね。その網に触れるまでって〉
身長が伸びて168センチになった約1年後、網に触れるようになった。本当に、
「1年間、ボールには触らせてもらえませんでした」
大松以上に厳しい鬼が家にいた、高校にいた。そして、世間の空気や常識そのものが“鬼”だった。
もうひとつの勲章
東京五輪女子バレーの最終戦は閉会式前日の夜。いずれも4戦全勝の日本とソ連の試合が金メダルを決める優勝決定戦となった。
セットカウント2対0の第3セット、14対13から6度目のマッチポイントでソ連がオーバーネットし、日本の優勝が決まった。視聴率は66・8%を記録した。
東洋の魔女には海外メディアから与えられたもうひとつの“勲章”がある。
表彰台に立った河西主将はプレゼンターに配慮し、ひざまずいて小さく頭を下げた。《ひざまずく東洋の魔女》。写真にはそう添えられた。猛練習で培われたのは、「しなやかな心遣い」だった。(敬称略)
※本原稿の執筆直後に、谷田絹子さん急逝の報せを受けました。私にリモートでお話ししてくださったのが、最後の取材となったそうです。心よりご冥福をお祈りします。(小林信也)
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