輪島功一が許せなかった「韓国人ボクサー」との一戦 リベンジを可能にした駆け引きとは(小林信也)
輪島功一は昭和18(1943)年、樺太で生まれた。1歳半で北海道士別市に移る。生活は貧しかった。小学校高学年になると、祖父母の家に養子に出された。
「小学校5年の頃から、イカ釣り船に乗って生活費を稼いだ。夕方から明け方まで一晩中イカを釣って、陸に上がると獲ったイカをさばいて干して。漁師さんは帰って寝るんだけど、オレはそれから学校さ」
イカを釣るのは、上向きに針をつけた竿。
「名人は針を50本も60本もつけて一気に釣るんだ。オレは子どもだから最初は30本くらい。それでもたくさん釣れると、重くて上げるのが大変だった」
日々の食い扶持のため、睡魔や寒さと戦いながら海に出るしかなかった。
「船酔いがきつくてさ。汚い話でごめんね、海に戻してしまう。漁師にそれを『もったいない!』と怒られてさ。だんだん要領がわかると、我慢してちょっとずつ戻す。そうすっとイカが寄って来て、よく釣れるんだ」
顔をくしゃくしゃにして笑う表情は、現役時代と変わらない。
高校1年まで海で祖父母の暮らしを支えた。やがて、先の見えない環境に見切りをつけて東京に出た。
「高校も出てないからさ、仕事もなかなか見つからなくてね。土建会社で働いている時、行き帰りの途中にボクシングジムがあった」
それが三迫(みさこ)ジムだった。
「さんぱくジムかってね。覗いたら面白そうでさ」
志願するとすぐ訊かれた。
「お前いくつだ?」
「もうすぐ25になります」
「じゃ端っこ行って、好きにやってろ」
年齢だけで、輪島は選手育成コースでなく、「自主トレコース」に追いやられた。
「ファイティング原田がオレと同い年なんだ。原田は中学時代にボクシングを始めて19歳で世界チャンピオンになった。オレが始めた頃はもう引退間際だった。ボクシングはそういうものだったから、オレなんて相手にされなかった」
しかし輪島は本気だった。やる以上は一花咲かせてやると。年齢的な焦りはなかったのか?
「25だからね、オレは慌てるんじゃなくて、急いだね」
輪島らしい絶妙な言い方でまた笑った。
“王さん、どう思う?”
私が初めて輪島と会って言葉を交わしたのは、大学を卒業するかしないかの頃。輪島が引退してまもない時期だった。
自宅近くの井の頭公園にジョギングに行くと、400mトラックの周りに立つ木々の間を縫うように走る男の姿が遠くに見えた。ときおりしゃがみ込み、何かを拾ってポケットに入れる。やがてそれが輪島功一に違いないとわかった。私は黙って輪島の後について走り始めた。時々しゃがむのは、ゴミを拾っているのだとわかった。やがて急に輪島は足を止め、パッと振り返って私に向かってシャドーボクシングを始めた。そして、私の眼を見て、口を開いた。
「王さんのホームラン世界記録、どう思う?」
王貞治が756本の世界記録を達成して大騒ぎになった翌年だったろうか。
「日本の球場って狭いんだろ? アメリカの球場はもっと広い。それで世界一って、違うんじゃないか」
そしてまた、鋭い連打を私に向けて放った。
「オレはさ、世界のリングに上がって、世界の王者を相手に直接戦ってタイトルを獲った」
それが世界王者・輪島功一の矜持なのだ。
[1/2ページ]