【ブックハンティング】国連も指摘「日本の入管」外国人拷問の実態
ページをめくる度に、言いようのない怒りがこみ上げる。
精神状態に異常をきたすほど非人間的な密室に、期間の上限なく閉じ込められている人々がいることも、蒸し暑く電気の遮断された6人部屋に、17人が24時間以上「監禁」されたことも、床の上でのたうちまわるほど苦しんだ男性が、放置され死に至ったのも、全て公的施設で起きた話だ。
死亡したそのカメルーン人男性の様子を、職員は監視カメラで観察しながら「異常なし」と報告書に書き込んでいた。この話のどこが「異常なし」なのか、と思うだろう。出入国在留管理庁(入管)の収容施設でのこうした人権蹂躙は、枚挙にいとまがない。
親が施設に収容され、学校の授業中にもかかわらず、子どもたちが車に乗せられ児童相談所に入所させられたケースなど、「ゼロ・トレランス(不寛容政策)」として非人道的な親子分離を繰り返してきた、米国のトランプ政権下での出来事だと思うかもしれない。けれどもこれは、遠い海の向こうで起きている話ではない。
ここ日本の入管施設で、つまり私たちのすぐ隣で起きていることなのだ。
たとえば、2017年春に来日したあるクルド人家族は、収容後に引き離され、母親は子どもがどこの施設にいるのか、支援者からの情報が伝わるまで知らされていなかったという。
「人間らしさ」を削ぐ空間
共同通信記者の平野雄吾氏が執筆した『ルポ入管 絶望の外国人収容施設』(ちくま新書)は、こうした日本の入管政策の実態を、当事者の声と共に浮き彫りにし、その歴史的な背景や国際比較など、幅広い視野から取材したものだ。
日本政府が外国人をどのような「まなざし」でとらえ、どのように「管理統制」しようとしてきたのか、その課題が凝縮されている。見えてくるのは、入管のあまりに不透明な運用と、権限の過度な集中だった。
なぜ収容されてしまったのか、中で起きていることは入管側の言葉通り「適切」なのか、送還される外国人の選定や、在留を認める際の「基準」は何なのか、その多くがブラックボックス化している。入管側はそのことを問われても、「批判にはあたらない」という事実上のゼロ回答を繰り返してきた。
こうした自浄作用をなくしたとき、権力は必ず暴走する。そして現場にしわ寄せがいき、密室に閉じ込められた人々に矛先が向いていく。
前述したカメルーン人男性が死亡したときのように、医療的な知識のない職員たちが、収容者を「客体観察」として、監視カメラ付きの部屋に移し、苦しむ姿を観察している様子は、想像するだけでも背筋が凍る。
元々体調を崩していなかったとしても、収容施設での日々は過酷だ。人間らしく生きるとは、単に雨風をしのぐ場所があればいいというだけではない。生きがいを見出し、人とつながる自由が伴わなければならないものだろう。
収容施設内では、刑務所のような「作業」があるわけでもなく、刑事罰のような明確な「刑期」があるわけでもない。いつ外に出ることができるのか、そもそもそれは叶うのか。家族や友人たちから、強制送還という形でさらに引き離されてしまうかもしれない恐怖を抱きながら、終わりの見えない収容の日々をやり過ごさなければならない。「人間らしさ」を徹底的に削いでいくその空間は、閉じ込められている人々を、心身ともに追い込んでいく。
「強大な権限を手放したくない」
私はこうした入管の構造に既視感があった。思い浮かべたのは、ぐるりと見上げるような壁やフェンスに囲まれ、「天井のない監獄」とも呼ばれるパレスチナ・ガザ地区に生きる人々や、日々、占領や迫害と隣り合わせに暮らす、ヨルダン川西岸地区の人々の姿だった。
軍事的・政治的に圧倒的強者であるイスラエルの軍人は、パレスチナ人を「取り締まる対象」と決めつけ、肥大化した権力をふりかざし、「治安維持のため」と搾取や差別、抑圧を正当化する。その構造が、入管内で起きている出来事と重なって見えたのだ。
収容を経験した人々の中から、「入管にもいい職員はいる」という声を耳にしたことがあった。けれども巨大なシステムの中で、個々人はどこまで抗えるだろう。
私が話を聴いた元イスラエル兵も、パレスチナ人を弾圧することと、週末家族と団らんすることの、2つの顔が日常の中に「共存」していた。個々人の「良心」に任せるだけでは、組織の歪んだシステムに抗うにも限界があるのではないだろうか。
元入管職員である木下洋一氏は、本書でこう語っている。
「入管当局は強大な権限を手放したくないんです。職員には、おれたちが外国人の首根っこを摑んでいるという強烈な意識があります。けれど、無規律な裁量行政は結果として、国益を損なうのではないでしょうか。日本人との結婚を壊してまでも守る国益とは何なのでしょう。もう今の時代、 広範な裁量権を持っていると言って、 悦に入っていても仕方ありません」
私自身は、この「国益」という言葉を好んで使うことはない。ただ、構造的問題をとらえる上で、木下氏の言葉は非常に的を射ているように思う。
問題は長期収容に留まらない。難民申請者にとっては、難民認定率0.4%という、認定に至るまでの分厚い壁も立ちはだかる。
「友好国」への「忖度」
本書では、法務省法務総合研究所が作成した入管職員の研修教材に、難民認定について、
「純粋に人道的な立場からのみ対応するのは難しい」
と記載されていたことが紹介されている(1998年7月16日付『東京新聞』朝刊)。
これはつまり、難民の条件を備えた外国人であっても、友好国の国民の場合は慎重にならざるをえない、としているのだ。難民として認定するということは、その当該国の政府や社会に欠陥があると指摘することになる恐れがあるからだろう。
その「友好国」への「忖度」から、難民認定を拒絶され続けてきたとみられるのが、トルコ出身のクルド人たちだ。彼らが難民認定を受けられずにいることで、「偽装難民」「トルコで迫害なんてないだろう」という心ない言葉を投げかけられているのが、ネット上でも散見される。「迫害なんてない」ということが、いかに実態とずれたものであるかは、本書が描き出す家族たちの歩みに詳しい。
ちなみに、2018年のトルコ出身者の難民認定率を他国と比較すると、カナダが89.4%、トランプ政権下の米国でも74.5%にものぼり、日本の0%が異様であることが、具体的な数字からも分かる。
だからこそ、国の態度次第では、事実に基づかないマイノリティへの差別や誹謗中傷が横行してしまう。それは「官製ヘイト」と言わざるを得ないものではないだろうか。
こうして制度から排除されるクルドの人々の中には、「非正規滞在者」として不安定な立場にいる人たちが多い。彼らは、コロナ禍による特別定額給付金の支給からも除外されており、経済が落ち込む中、より一層深刻な状況に置かれている。
五輪でのみ「難民受け入れ」を誇る姿勢
この本にも証言が紹介されているデニズさんもその1人だ。彼のように「仮放免」という立場では、労働することは認められず、国民健康保険にも加入できない。以前、私がデニズさんに話を聞かせてもらった時には、
「ぜひ働きたい」「自分で働いたお金で奥さんにプレゼントしたい」
と切実に訴えていた。
本書が刊行される直前、国連人権理事会の「恣意的拘禁作業部会」が、デニズさん、そしてイラン国籍のサファリ・ディマン・ヘイダーさんの訴えを受けて、日本の入管当局の対応を「国際人権規約に反する」とした見解をまとめていたことが明らかになった。
2人とも難民申請中であり、精神疾患や著しい体調不良を訴えてきたにもかかわらず、入管は長期にわたって繰り返し2人を収容してきた。在留資格がないなどの理由で外国人を無期限に収容する日本の方針は、これまでも国連から再三、「拷問にあたる」等の指摘を受けてきたが、今回の見解はさらに踏み込んだものだった。
果たして日本政府は、どこまで真摯にこの声と向き合い、具体的な改善を図っていくだろうか。
延期となった東京五輪が来年に控えている。大会では、紛争などで母国を離れた難民で結成する「難民選手団」を受け入れることが声高に掲げられている。もちろん、選手それぞれが大会に向けて重ねてきた努力は、否定されるものではない。けれども足元では、外国人に対する人権蹂躙を繰り返し、五輪という舞台でのみ「難民受け入れ」を誇るその姿勢は、あまりに都合がよすぎるのではないだろうか。
取材に対して証言することは、公権力や公的機関から理不尽に尊厳を傷つけられてきた人々にとって、匿名の方も含め、勇気のいることだったはずだ。彼ら彼女たちが「声をあげてよかった」と思えるような仕組みを築いていけるかは、本書を読んだ、私たち1人1人にかかっている。
安田菜津紀さんが副代表を務めるNPO法人「Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)」