1カ月で利益1億円……“仕掛け人”折口雅博氏が語る「ジュリアナ東京」誕生秘話

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 お立ち台の上で、羽根つき扇子を振り回して踊るボディコンの女性たち……。バブル末期に一世を風靡した「ジュリアナ東京」といえば、平日は1000人、週末になると2000~3000人ものお客が押し寄せ、最寄りのJR田町駅からボディコン女性が列をなし、“社会現象”にもなったことで知られる。そのジュリアナ東京を企画・プロデュースした折口雅博氏(59)に、伝説のディスコ誕生までの秘話を聞いた。

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 ジュリアナ東京の映像は、今でもバブル時代の象徴としてメディアで紹介される。DJのジョン・ロビンソンが「ジュリアナズ~トーキョー」と叫び、星野靖彦のテクノ『CAN`T UNDO THIS!!』が流れると、会場のボルテージは最高潮に達した。店内は連日鮨詰め状態で、昨今のコロナ禍では考えられない光景である。

 オープンは、1991(平成3)年5月。

「初日は550人が入場しました。午後6時開店。8時までは静かな音楽が流れ、食事をしたり、飲んだりしてもらい、8時になるとレーザーショーが始まります。そして『ジュリアナズ~トーキョー』とメカニカルな声が流れた時には、感極まって涙がでましたね」

 と回想するのは、折口氏。同氏は11月に自らの半生を綴った『アイアンハート ゼロから12年で年商7700億円企業を創った不墝不屈の起業家』(昭文社)を出版したばかりだ。

ディスコのノウハウはゼロ

 まずは、折口氏の経歴を紹介しよう。

 東京・大田区出身。父親は人工甘味料を生産する会社を経営していた。ところが、アメリカで人工甘味料に発がん性物質が含まれていると発表され、厚生省も使用禁止を決定。会社も倒産する。その影響で、高校は学費のかからない陸上自衛隊少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)に進み、防衛大学では理工学を専攻した。防大卒業後、コンピュータ会社の日本ユニシスを経て、1985年に日商岩井に入社した。

 ジュリアナ東京、94年にヴェルファーレをオープンさせた後、95年に人材派遣会社の「グットウィル」を創業。12年で年商7700億円の企業にまで成長させた。しかし、2006年、グループ会社「コムスン」の介護報酬不正請求が発覚したことがきっかけで、09年にグットウィルは解散した。

 現在は、ニューヨークと東京に拠点を持つブロードキャピタル・パートナーズのCEOを務める。これまでの経験を生かし、起業家にコーチングを行っているという。

「日商岩井では電子産業部に所属し、ハンガリーやチェコ、ルーマニアなど東欧向けにパイオニアなどの音響機器を輸出していました。ところが、85年のプラザ合意(G5でドル高是正のための協調介入が合意された)によって円高となり、輸出から輸入の仕事に切り替わったのです」

 折口氏は、日本ではまだ小さかったレジャーやエンタテインメント業界に目をつけ、インドアのゴルフシュミレーターやインドアのウォーターパークなどを手がけた。

「そんな時、芝浦に倉庫を持つ社長から声がかかったのです。空いた倉庫を活用できないかというので見に行ったら、きれいな長方形で、広さは1200平方メートル。天井高は8メートルもありました。ディスコにしたらすごくダイナミックなものになると思いました」

 倉庫は、JR田町駅から徒歩7分の場所にあった。

「非日常な空間を作れば、ディスコにはピッタリの場所だと思いましたね。社長にディスコをやるのはどうかと言うと、びっくりしていましたね。当時日商岩井は、イギリス最大のレジャー企業であるウェンブリー社と業務提携しており、傘下にあったのが、ジュリアナズ社です。日商岩井が日本初の外資系大型ディスコを手がけるとなれば、大きな話題になると思ったんです」

 折口氏は、それまでディスコには4回しか行ったことがなく、ノウハウも全くなかった。

「都内の一流ディスコを見てまわってスタッフをヘッドハンティングしました。当時、一番流行っていた日比谷のラジオシティの支配人に声をかけ、ジュリアナ東京に来てもらいました。ほかにも、マハラジャなどから、支配人やマネージャーを計10人ほど引き抜きました」

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