生後128日で亡くなった齊藤樟丸君は短くても深く生きた…こどもホスピスの奇跡とは【石井光太】
生後百二十八日で亡くなった樟丸君
この経緯については私が四年にわたって取材して著した『こどもホスピスの奇跡』を読んでいただきたいが、こうして難病の子供や家族の夢を背負って二〇一六年四月に完成したのが、TSURUMIこどもホスピスだった。
花博記念公園鶴見緑地にある二階建ての建物は、青い芝生の庭を囲むような弧形をしている。室内には木の香りが漂い、大きなガラス窓からは陽光が射し込む。
施設全体が子供の遊び場になっていて、おもちゃの部屋(どんぐりの部屋)、おとの部屋、ひかりの部屋、つるみカフェなどいくつもの部屋が用意され、数えきれないくらいの遊具や楽器が並ぶ。
メンバーとなった難病の子供であれば、無料で利用することができる。専門の資格を持つスタッフが温かく迎えて支えてくれる。巨大なテントを張ったキャンプ、大きなお風呂やプールでの水遊び、会場と楽器を借りてコンサートを開催することだってできる。
代表理事の高場秀樹は言う。
「病院で、子供は患者として生きなければなりませんが、ここに来れば本来の子供にもどって自由に過ごせます。苦しい治療から解き放たれ、親や兄弟と好きなだけ遊び、心から笑って、生きている実感を得ることができる。ホスピスが目指すのは『家』としてのあり方です。たとえ短い人生であっても、深く生きることはできる。その深い人生をつくるための空間がTSURUMIこどもホスピスなんです」
対象年齢は十八歳までだが、生後間もない乳児が利用することもある。私の印象に残っているのが齊藤樟丸君だ。生まれてすぐに脳腫瘍が見つかったものの、治療の手立ては限られていた。そこで、両親が兄二人とともに樟丸君をホスピスに遊びに連れてきたのだ。
最初、小一と小三の兄二人は、生まれた直後から入院していた樟丸君への接し方がわからず戸惑っていた。だが、ホスピスのスタッフが間に入って言葉を掛け、ブランコや電気自動車の運転などで一緒に遊んでいるうちに距離が縮まっていく。家族が一つになっていった。
家族が最後にホスピスを利用したのは、生後百日の御祝いの「おくいぞめ」だ。残された時間が少ないのはわかっていたが、ホスピスの広い部屋に集まって、家族みんなで飾りつけを用意し、ケーキを食べた。最後は樟丸君を中心に家族みんなで横になって記念撮影をしたのである。
樟丸君は生後百二十八日で亡くなった。だが、入院をつづけて家族バラバラでいるよりも、退院してホスピスで楽しい時間を過ごせたからこそ、家族が一つになり、最高の思い出をつくることができた。
翌年に夫婦の間に妹が生まれた時、兄はこう言って喜んだ。
「これで天国の樟丸もお兄ちゃんになれたんだね!」
ホスピスで樟丸君と過ごした時間があったからこそ出た言葉だったのだろう。
――短くても、深く生きる。
TSURUMIこどもホスピスは、そんな理念を掲げて創設五年目を迎えた。
新型コロナウイルスが猛威を振るう最中でも、難病の子供たちの残された時間は刻一刻と進んでいる。だからこそ、ホスピスのスタッフたちは、できることを精いっぱいすることで、短い人生を充実したものにしようと取り組んでいる。
全国にいる二万人の命の危険に脅かされる難病の子供たちにだって、人生を謳歌する権利はある。この世に生まれてきたすべての子供は、自分の人生を好きなように生きることが認められるべきなのだ。
こうした環境をつくるのは社会だ。TSURUMIこどもホスピスが寄付で成り立つ民間施設であることを踏まえれば、社会に暮らす私たち大人の役割だと言っても過言ではない。
『こどもホスピスの奇跡』を読んでいただければ、ホスピスの取り組みが悲しいものではなく、子供にとっても家族にとっても希望に満ちたものであることがわかるだろう。私たちはしっかりと難病の子供たちが置かれている現実に目を向け、どういう社会をつくっていくべきかを一人ひとりが考えていく時期に来ているのだ。
[2/2ページ]