生後128日で亡くなった齊藤樟丸君は短くても深く生きた…こどもホスピスの奇跡とは【石井光太】

国内 社会

  • ブックマーク

――難病の子供たちの「短い人生」を明るく輝かせてあげたい。

 日本全国で、余命の限られた子供たちが夢をかなえ、家族との一生の思い出をつくるための施設ができ上りつつあるのをご存じだろうか。

 イギリスなど欧米に比べて、日本では難病の子供たちの居場所づくりは三十年以上遅れてきたと言われている。だが、ここ数年、日本ではそうした場がいくつも設立されつつある。

 その代表的な施設の一つが、大阪市の花博記念公園鶴見緑地にできた日本初の民間小児ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」だ。

 難病の子供たちとその家族の命を、どんな人たちが、どんな場所で、どんなふうに輝かせているのか。

こどもホスピスの奇跡――短い人生の「最期」をつくる』(新潮社)は、その取り組みに光をあてたノンフィクションだ。

 TSURUMIこどもホスピスがオープンしたのは、二〇一六年四月。だが、日本では難病の子供を取り巻く環境は決して明るいものではなかった。

 日本には約十五万人もの難病の子供がいる。小児ガン、先天性心疾患、重度脳性麻痺などの病気で、このうち二万人が命の危機に脅かされている。

 医療者の仕事は、病気を治すことだ。そのため、少し前までは、子供を病院に閉じ込め、なしうる限りの治療を施すのが常だった。しかし、それは助からない子供にとっては決していいことではなかった。

 原純一(大阪市立総合医療センター副院長)は、かつて大阪大学医学部附属病院で働いていた時のことをこう語る。

「二〇〇〇年代の半ばくらいまでは、小児科には緩和ケアのような考え方はほとんどなかったんです。医者は幼い子供たちの生活を徹底的に管理し、抗ガン剤治療、放射線治療、外科手術などをくり返して一日でも長く延命しようとしていました。死なせてしまうことは『失敗』でしかなかったんです」

 医療が進歩しているとはいえ、小児ガンの生存率はかつては五割、現在でも七割だ。治療法のない難病もある。にもかかわらず、医師は患者の死を恥ずべきものと考え、助からないとわかっていても過酷な治療をつづけた。

 原は言う。

「親御さんだってかわいそうです。彼らは子供に助かってほしいから、医者の指示に従って子供を叱りつけてまで厳しい治療を受けさせる。やればやるほど子供は苦しんで最期は何も言わなくなります。中には恨むような目を親や医者に向けて亡くなっていく子もいる。家族は子供とのいい思い出をつくれず、心身共に疲れ果てて離散してしまうことも珍しくありませんでした」

「助からないなら子供と笑ってすごしたい」

 そうした中、原は四十代の時にある家族と出会う。夫婦の間には三歳の息子がいた。息子は小児ガンで余命いくばくもなかった。

 原はいつも通り夫婦に病状をつたえて、できるかぎりの治療をしようとした。すると、夫婦は「助からないなら子供と笑ってすごしたいと思います」と言って延命治療を拒否し、テーマパークなど息子が喜ぶ場所へ次々と連れて行った。息子は病気が進行しているにもかかわらず、表情がどんどん明るくなっていった。病院へ来る度に嬉しそうに家族で遊びに行ったことを話す。夫婦も満たされた顔をしていた。

 数カ月後、息子は亡くなった。この時、夫婦は晴れ晴れとして言った。

「おかげさまで、私たちがしてあげたいと思うことはすべてできました。どこへ行ってもこの子は見たことがないほど楽しそうに笑っていました。一生の思い出をつくれました。短かったですが、息子も悔いのない人生を送れたと思います」

 原は大きな衝撃を受けた。残された時間の使い方ひとつで、家族全員が死をこんなふうに受け取れるなんて。医者は、死を失敗として片づけるのではなく、助からない子供や家族にそういう生き方を示すのも役目ではないか。

 この出会いをきっかけに、原は難病の子供たちのトータルな支援についての研究会を発足させる。子供だけでなく、家族を支えるにはどうすればいいのか。余命の限られた子供のより良い生活とは何か。小児の緩和ケアが確立されていなかった時代に、みんなで理想のあり方を考えたのだ。

 二〇〇九年秋、原は仲間とともにイギリスにあった世界初の小児ホスピス「ヘレン&ダグラスハウス」の関係者を大阪に招いてシンポジウムを開催した。

 ヘレン&ダグラスハウスは、一九八二年にオックスフォードで創設された。大きな邸宅のような建物で、看護師や保育士などの資格を有するスタッフが家族を迎えてくれる。難病の子供たちは、無償で好きなように過ごせる。「看取りの場」としての成人のホスピスとは異なり、小児ホスピスは「家族を支え、最高の思い出をつくる家のような空間」を目指すのだ。

 原らがシンポジウムを開催したのは、日本にも同様の小児ホスピスをつくりたかったからだ。病院と切り離されたところに、難病の子供たちや家族が安らげる家を提供したかった。

 このシンポジウムをきっかけにホスピス設立に向けての動きが起こる。病院関係者だけでなく、保育士、理学療法士、音楽療法士など様々な人たちが集まってプロジェクトを結成したのだ。

次ページ:生後百二十八日で亡くなった樟丸君

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。