「袴田事件」判決文で流転の人生 自殺も考えた元裁判官「熊本典道さん」が破った掟

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 1966年に静岡県清水市(静岡市清水区)で味噌製造会社の専務の一家4人が殺された「袴田事件」で、犯人とされた袴田巌さん(84)に一審の静岡地裁で死刑が言い渡された際の裁判官の一人で後年、「袴田さんは無実だった」と告白して支援活動をした熊本典道さんが11月12日、福岡市の特養施設で死去した。享年83歳。

 佐賀県出身、九州大学法学部在籍中、現在よりはるかに難しかった司法試験をトップで合格し、裁判官となる。「末は最高裁判事間違いなし」と期待されていた。

「父親が詐欺に遭い退職金をすべて奪われたのが法律家になるきっかけでした」

 静岡地裁に赴任し、第二回公判から左陪席として袴田事件を担当した。無実の心証を持っていたが、三人の合議制の評議では「死刑になるのに自白するはずがない」と有罪主張する裁判長と右陪席裁判官を説得できず、裁判長に死刑の判決文を書かされた。せめてもの思いで捜査批判を加えた。

 1968年9月、裁判長が死刑宣告すると袴田被告はがっくりうなだれた。その姿が忘れられず「人の命を左右する仕事はできない」と悩んだ末に退官。弁護士に転じて大企業の顧問などで一億円近く稼ぎ、銀座で豪遊する日々もあった。

 しかし、逆転無罪を祈った東京高裁の控訴審も棄却され、1980年11月に最高裁で袴田さんの死刑が確定した。衝撃を受けた熊本さんは「自分が死刑宣告した袴田さんが殺される前に死のう」とスウェーデンの北海で氷の海に飛び込もうとした。ところが偶然、直前に同じ船からある青年が飛び込み自殺をした騒動に巻き込まれた。

「母親が泣き叫ぶ姿を見て親からもらった命を粗末にできない」と考え直し、生きることを決心しました」

 家庭は持っていたが精神状態が不安定になる。妻と離婚し、深酒などで次第に身を持ち崩してしまった。その後、露天商をしていた島内和子さんと知り合い仲良くなり、福岡市の島内さんの一軒家で一緒に暮らしてきた。それでも鉄道自殺を図り、血だらけになるなど情緒不安定だった。理由を尋ねる島内さんには「70歳になったら話す」と言っていたという。

 ある時、「袴田巌君を支援したい」と言い出し、連絡先などを調べていた島内さんの息子が「あの人、裁判官だったんだ」と言ったので和子さんは仰天した。

 熊本氏は2007年、裁判官は退官後も合議の内容を口外してはならないという「掟」を破って「袴田巌さんは無実」と訴え「袴田巌さんを支援する清水・静岡市民の会」(山崎俊樹事務局長)に告白した。同年2月の会見では「39年前、私は無罪と思いながら死刑の判決文を書きました。人殺しと一緒です。なんとか袴田巌さんを助けたい」などと話していたが、「評議内容の口外」をなじる記者もいた。その後、熊本さんは最高裁に再審開始を訴える上申書を提出した。熊本さんは巌さんの姉・秀子さん(87)や、山崎事務局長と拘置所を訪れたが、いつも一人だけ面会が許されなかった。

 元裁判官の「流転の人生」をめぐり2010年には『美談の男 冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』(尾形誠規著)が出版され、同年に公開された映画「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明監督)でも、主人公のモデルになっていた。

 2014年3月に半世紀ぶりに再審開始決定で釈放された袴田巌さんとは2018年に再会を果たした。その時のことについて今年9月に筆者が浜松市で取材した秀子さんは、

「拘置所で巌に接見した時、熊本さんの話をしたら覚えていて『あの人はいい人だった」って言ってましたね。でも熊本さんが無罪を主張していたなんてことを巌は知らないから、一審の法廷で厳しく刑事を追究する様子などを見ていて直感的にそう感じていたんでしょうね。熊本さんは最初、こちらにきて謝罪したいとのことでしたが御体が悪くて来られませんでした。ある日、巌が『ローマに行く』と言うから私は今しかないと思い『よし、今行こう』と福岡に連れて行きました。熊本さんはかなり衰えて『巌、巌』と泣いて声をかけていました。巌は熊本さんが変わってしまい、よくわからなかったみたい』

と話していた。熊本さんの危篤状態を知った秀子さんは今月3日に見舞いに行ったという。

 筆者は2014年の春に熊本典道氏を福岡市に訪ねたことがある。

「罪状認否で巌さんは『やってません』と自信をもって語った。私はじっと被告席の彼を見ていたが、怖いほど落ち着いていた。『裁判官ならわかるでしょ』といった様子でしたね」「最初は『肉体関係のあった専務の妻から強盗殺人に見せかけて保険金を取ろうと言われた』と言ったのが『家庭をもって家族と住みたかった』などに不自然に変遷し、警察の誘導を感じました」

 静岡県警は事件の翌年、「犯行時に着ていたシャツとズボンが味噌樽に隠されていたのを発見した」と発表したがズボンは袴田さんには小さすぎて履けなかった。

 熊本氏は「事件後すぐに警察が味噌樽を調べないはずはない。工作できるのは警察だけ、警察の捏造を確信した」などと話していたが、このように理路整然と話せたのではなく、当時から糖尿病治療の影響で脳にも障害があり、かなり島内さんの「通訳」を頼るところもあった。熊本さんの最期について島内和子さんは「ここ3か月くらいは何も食べられず、水も飲めなかったようです。前の奥さんとの長男が来てくださり、彼が帰ってたった15分後に笑ったような顔で亡くなりましたよ」と話してくれた。

 袴田巌さんの再審開始決定は2016年に東京高裁で覆され、現在、最高裁で審理中。袴田さんはいまだに「死刑囚」のままだ。しかし「親を忘れても巌さんが死刑宣告でうなだれた姿を忘れた日はない」と語っていた熊本さんが巌さんの釈放、さらに再収監や執行がないであろうこと、そして再会できてから亡くなったことだけは救いだった。合掌。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年11月17日掲載

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