「日本学術会議の日共支配」は39年も前に指摘されていた 執筆者が改めて語る問題点
日共の“浸透”
その後も日本学術会議は政府の方針に異を唱え続けた。屋山氏の寄稿から引用すると、否定されたものも含め、《「再軍備反対」の声明案》、《破防法反対声明》、《「日本国内での原潜入港は望ましくない」との声明》、《大学管理法反対》、《教育二法反対》、《警職法反対》、《筑波大法反対》──という具合だ。
これに屋山氏は、《戦後の大きな政治問題ではことごとく政府に反対を打ち出した。こうなると最早、学術団体ではなく政治問題である》と指摘した。
当時の自由党や、55年に結成された自民党は、日本学術会議の態度を問題視していた。講和問題で激怒した首相の吉田が民営化を目指したことも寄稿には記されている。
《(編集部註:昭和)二十八年「学術会議を民営に移すよう」事務当局に検討を命じ、学術会議の運命は風前の灯火となった。が、二十九年末、吉田内閣の方が先に倒れて沙汰やみとなり、学術会議は九死に一生を得た》
だが当時の文部省や、学術会議の“政治的偏向”を嫌った有識者などが中心となって日本学士院を、科学技術庁(現:文科省)が科学技術審議会を発足させた。
これを屋山氏は、《要するに親会社に見切りをつけて、子会社を続々と分離独立させてしまった格好である》と解説している。
なぜ、日本学術会議は政治的に偏向したのか、先に紹介した【1】日本学術会議が共産党に《占拠》されている理由として、屋山氏は選挙に原因があるとした。
日本学術会議は49年の発足から84年まで、選挙によって会員を選んでいた。日本共産党はこれに目をつけ、シンパや党員の学者に有権者登録を積極的に行わせ、関係の深い日本科学者会議のメンバーを立候補させていた。組織票の力は強く、候補者は当選が相次いだ。
《日共が学術会議を「攻略し終わった」といわれたのは、第九期だが、たとえばこの選挙の第四部(理学)をみてみる。立候補者は四十二名で、このうち日科系(新左翼も含む)の当選者は定員三十名中十四名。落選者十二名の内訳はノンポリが十名、日科系はわずか二名だった。いかに日共の票割りが正確だったかわかるだろう》
《日共党員の数は日教組や全日自労では三~四%といわれる。わずか数パーセントであの強大な組織を意のままに動かす日共の“実力”を考えると、四〇%近い数を握った学術会議が、日共に牛耳られるのは、むしろ当たり前のことだ》
桑原武夫の述懐
だが、40%は過半数ではないと気づいた方もおられるだろう。60%が非共産党系の会員である可能性は高く、《日共に牛耳られる》の表現はオーバーではないだろうか?
「いえ、それでも会議の主導権を握ることは不可能ではないと、共産党が証明しました。更に少数派であるにもかかわらず、議決で“過半数”を取ってしまうというマジックも珍しくありませんでした」(同・屋山氏)
屋山氏の寄稿では、このカラクリを解く鍵が、『桑原武夫全集第七巻』(岩波書店)に書かれていたことを突き止めている。
桑原武夫(1904~1988)は、フランス文学の研究者としてあまりに有名だ。自身が京都帝国大学文学を卒業したこともあり、京大人文研で先駆的な学際共同研究システムを推進したことは今でも高く評価されている。
桑原は21年間、学術会議の会員であり、会議の副会長も務めた。そんな桑原が“過半数”について、次のような指摘を行っている。
《学術会議で私はいろいろの経験をし、多くのことを学んだが、その小さなことの一つは過半数ということについてである。会議ではすべて過半数をもってことが決まる。たとえば十五人の委員会なら、決済に必要な過半数は八票だと思っていたが、時として五票で足りる場合があることを知ったのである》
《左派の会員の結束は堅かったのである。それに欠席の問題であるが、左派の人は勤勉で出席率がきわめて高い。私は『自由主義者』(編集部註:原文は「リベラル」のルビ)ほどあてにならぬものはないことをしだいに理解した。彼らは個人として名論卓説を吐くことは得意だが、さてその主張を生かすべき会議には欠席、遅刻することが多いのである。……十五中の五は過半数だという理屈がここから生じる》
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