研究開発型ベンチャーは日本でなぜ育たないのか――堀 紘一(ドリームインキュベータ創業者)【佐藤優の頂上対決】

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 バブル崩壊後の日本が「失われた30年」を過ごしている間に、アメリカではGAFAが誕生し、世界を席巻するに至った。そうした会社が日本から生まれなかったのはなぜなのか。ベンチャー育成の会社を興し、100社以上と付き合ってきた経営コンサルタントが語る日本社会の課題。

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佐藤 堀さんは日本を代表する経営戦略コンサルタントで、テレビでもおなじみですが、ご尊父が外交官だったのですね。かつてロンドンで過ごされたことがある。

 ロンドンは1952年から2年間で、小学1、2年生でした。

佐藤 日本が国際舞台に復帰したサンフランシスコ平和条約発効の年です。

 4月に発効して日本が独立国になるのに伴い、在外公館を開くことになります。それで両親と兄妹3人、計5人で行きました。当時、ロンドンにいた日本人は30人で、2人が留学生、あとは大使館員とその家族です。我が家だけで在英日本人の17%を占めていた(笑)。

佐藤 お住まいはどの辺でした?

 ハムステッドです。

佐藤 ロンドン北部のいいところですね。

 まだ対日感情がよくなくて、ハイドパークを歩いていると、イギリスの子どもたちが僕に向かって「ジャップだ」と、石を投げてくるんです。避けきれなくて顔に何発か当りましたね。家に帰って父に話すと、戦時中のことをいろいろ説明してくれました。英国軍は、シンガポールあたりでは日本軍に散々な目に遭わされている。

佐藤 日本は戦艦プリンス・オブ・ウェールズを沈めました。

 彼らの誇りである戦艦を日本の飛行機が撃沈した。だからイギリス人の子どもとしては、まさに正当な行為だったわけです。

佐藤 私も外務省に入ってイギリスに留学しました。ロシア語の研修が英国陸軍の語学学校でした。ロンドンからオックスフォードへ行く途中のビーコンズフィールドにあります。

 へぇ。そこで何年勉強されたのですか。

佐藤 ここは1年です。翌年、モスクワ大学に移るのですが、そこではまともな語学教育をしてくれない。文法の勉強などはなく、いきなりディベートなんですね。最初からイラン・コントラ疑惑におけるアメリカとその同盟国のダブルスタンダードについて論じなさいとか、日本の被差別部落問題に対する闘争について議論しなさいとか、要するにロシア語が嫌になって、上達しない特別のコースになっている。だから最初はイギリスなのです。

 それはたいへんな経験をしましたね。

佐藤 レーニンは、外交官はみんなスパイだと言っています。語学ができると、スパイとしての能力が高まるわけですから、まずは語学で挫折させる。

 外交官なら、ソ連がどんな国でどんなことを考えているかを見極めなくてはいけない。ですからレーニンの言葉も、スパイを広く定義すれば外れてはいないですね。

佐藤 私は専門職で入ったのですが、モスクワが長くて7年8カ月もいました。

 それはあり得ない長さですね。

佐藤 帰国後は、情報部門の実質的な立ち上げをしました。だから所属した部署はモスクワの日本大使館と国際情報局の2カ所だけです。

 昔、外務省には面白い役職があって、私の父は「北海道担当大使」を務めていたことがあります。

佐藤 国内大使ですね。北海道大使は平成10年になくなりました。いまは関西大使と沖縄大使しか残っていません。他にはどこの大使をされていたのですか。

 最初がシンガポール、二つ目がポーランド、三つ目が北海道で、最後がイタリア大使でした。

佐藤 いいコースですね。外務省は2世や血縁者が多い役所ですが、堀さんはどうして外務省に行かなかったのですか。

 外交官を見過ぎて、イヤになったからですよ(笑)。

佐藤 なるほど、そうでしたか。

転職に次ぐ転職

 私にはなりたくない職業が二つあって、一つが外交官。もう一つが政治家でした。

佐藤 外交官の家庭ですから、政治家も見過ぎているわけですね。

 父は岸信介の秘書もやっていました。1956年12月に石橋湛山が7票差で岸さんを破って総理になりますね。岸さんは外務大臣に就任しますが、石橋さんは脳梗塞になって、組閣3カ月で辞任する。この時、横滑りで岸総理が誕生します。それで外務大臣秘書官を務めていた父が、そのまま総理秘書官になるんです。

佐藤 外務大臣秘書官は課長級ですが、総理大臣秘書官は局長級です。だから異例の人事と言えますね。

 そうなのですか。岸総理の秘書官としては安倍晋三さんの父上、安倍晋太郎さんがいらして、だいたい晋太郎さんがお金と票、つまりは選挙を担当し、父が演説を書くという二人三脚で支えました。政治家は、その晋太郎さんと中曽根康弘さん、石田博英さん、与謝野馨さんの4人に私は大変可愛がっていただいた。

佐藤 高いレベルの政治にも、すごく近いところにいらしたのですね。

 ただね、ある時、父がジュラルミンのトランクを何個も家に持って帰ってくるわけです。「それ何?」と聞いたら見せてくれたのですが、中には千円札がびっしり詰まっている。そして「これで何億円だ」とか言うんですよ。子供心にも、それが何か察するところはあるわけです。

佐藤 そういう裏舞台を知っていることは、後のコンサルタント業で役に立ったのではないですか。

 いや、私のやっていたコンサルティングは戦略を構築するというもので、実際にモノやヒトを動かすことは領域外でしたから、あまり関係なかったですね。

佐藤 社会人としてのスタートは新聞記者ですよね。

 当時はジャーナリストになろうと思っていました。政治家が一番怖がるのは新聞記者ですから(笑)。

佐藤 それで読売新聞に入られた。

 朝日新聞の内定をもらっていましたが、中曽根康弘事務所に遊びに行った時、そこにナベツネこと渡邉恒雄さんがいた。そこで「お前、どこの大学だ」と聞かれて、東大で朝日に内定していることを話したら、「朝日に行ったらこの業界で生きていけないようにしてやる」とヤクザみたいなことを言われましてね。その日のうちに中曽根さんから電話があって、明日の朝9時に来なさい、と。翌日、中曽根さんと渡邉さんと2人がかりで説得されて読売に入ることになったんです。

佐藤 見込まれたのですね。

 何事にも裏があって、渡邉さんと同期で後に日本テレビ社長になる氏家齋一郎さん以来、読売新聞には東大から入社していなかった。それを知った重役の小林與三次さんから、今年は必ず入社させろと厳命を受けていたんですね。

佐藤 その新聞記者を数年で辞めてしまいますね。

 最初、北陸支社報道部に配属されたのですが、やってみると、みんな読売新聞社員ではあってもジャーナリストではない。サラリーマンなのですよ。それでイヤになって、どうせサラリーマンなら待遇のいいところで働こうと、先輩の紹介で商社の丸紅に行くことにしました。でもこれも土壇場で、伯父のいた三菱商事に変更させられてしまう。

佐藤 三菱商事といったら、日本国家そのものみたいな会社でしょう。

 それはオーバーだと思うけど、とてもいい会社でしたね。私を採用してくれた常務がものすごい人格者で、中途入社の私がハーバード大へ留学する際も、またすぐ辞めたらどうするのかと周囲が大反対したのに対し、「甲子園球場の外野に阪神タイガースの私設応援団がいるだろう。頼まれもしないのにあそこで旗振っている奴らと同じで、堀は三菱商事辞めても私設応援団になる男だ」という総務部長の主張をサポートして、皆を説得してくれたんですね。

佐藤 それはすごい理屈ですね。

 私はみんなの懸念した通り、帰国してすぐ辞めてしまいますが、最近まで三菱商事の学生募集のパンフレットの最後のページに、入社しても辞めていいという例で私の原稿を出してもらっていたんですよ。

佐藤 三菱商事を辞めた理由は何だったのですか。

 当時は55歳にならないと取締役になれない。せっかくMBA(経営学修士)を、それもアジア人ではじめての金時計(成績上位5%に与えられる)をもらったのだから、それを生かしたいじゃないですか。それまで待っていられなかったということですね。

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