初のリリーフ専門ピッチャー「宮田征典」誕生秘話 武器は独特なカーブとテンポ(小林信也)
セーブポイントの概念がまだ日本になかった1965(昭和40)年。“救援専門”の投手が現れ、球界の常識を変えた。彼がマウンドに上がるのは決まって時計の針が8時半を指すころ。それでいつしか彼、宮田征典は「8時半の男」と呼ばれるようになった。
「投手はお山の大将で“色気”も多い。やっぱり先発完投したい、ノーヒットノーランもやりたいんだ。リリーフじゃ、完全試合はできないからね」
いまでこそクローザーは花形だが、昔の救援投手は地位も評価も低かった。当時巨人の投手コーチだった藤田元司も救援転向を勧められたが固辞し引退した。南海のエース杉浦忠は肩を痛めて、〈救援しかできない投手になってしまった〉と痛恨の手記を書いている。
当時は火消し役もエースが務めていた。金田正一、稲尾和久らは救援での勝ち星も多かった。稲尾は61年に42勝を記録したが、うち先発勝利は24、救援勝利が18もあった。
「救援専門を決意したのは、その2年前(63年)の日本シリーズがあったからなんだ」
宮田は多摩川グラウンド近くの焼き鳥店でポツリポツリと話し始めた。伝説が生まれて17年後、宮田が日本ハムの2軍投手コーチを務めているときだ。
“お前は意気地がない”
練習後に多摩川の合宿所を訪ねると、巨人時代から馴染みの店に誘われた。小さな店のカウンターに並んで、26歳だった私は「8時半の男」の話を聞いた。
「西鉄に4勝3敗で勝ったんだけど、僕は散々な成績だった。一塁に牽制悪投、二塁にも悪投、本塁へはワンバウンド……。肘が曲がって投げられる状態じゃなかった。優勝した夜、宿舎で飲んでいる時、川上監督がチクチクと言うんだ。
“お前は意気地がないよな、肘が痛いから投げられない? 意気地がないよ”
僕は腹が立ってね、“それじゃ監督、オレは必ずやるから、やってから監督と同等にモノを言わせてもらう”と思わず言ったんだ」
翌64年、宮田は言葉どおり6月までに7勝を挙げる活躍を見せた。うち6勝は救援での勝利だった。ところが、肩を痛めてそれっきりに終わった。またも瀬戸際に追い込まれた65年の開幕前、宮田は思いがけない転機を得た。
「大阪球場で南海とのダブルヘッダーがあった時、藤田さんが川上監督に“第2試合の先発投手がいないから宮田に投げさせようと思うんですが”と言った。僕はちょうどすぐ後ろにいた。すると川上監督が答えた。“ガンちゃん(藤田)、宮田を先発させたら抑えのリリーフ、誰がするんだ”。それを聞いてスッパリふんぎりがついたんだ。自分をそういうふうに使うつもりなんだなと」
宮田といえば“シンカー”のイメージがある。独特の落ちるボールが8時半の男の武器だと。ところが、データはそれと違う事実を教えてくれる。落ちるボールが決め球ならゴロのアウトが多いはず。ところがこの年、ゴロのアウトは140、フライが195。しかも奪三振145。これは明らかに“高めの速球で三振の取れる投手”の証ではないか。
訊くと宮田は思いがけない秘密を教えてくれた。
「勝負球はね、本当はスピードボール。落ちる球は不可解なボールでしょ。バッターが勝手に勘ぐってくれるわけ。フォークかナックルかって。僕は1種類のボールを投げているのに、おかげで相当助かった」
しかもその球の正体は。
「実はね、いま明かせばあれはカーブなんだ。子どもの頃から親父に鉄アレイ持たされてたから腕っぷしだけは強くてね。握りはカーブとまったく一緒、捻り方を工夫したら、特殊なカーブになったんだ」
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