卓球界の伝説「荻村伊智朗」道場破りの日々と世界で受けた差別(小林信也)

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雪降る深夜に練習

「荻村さんとの出会いで私の人生は変わりました」

 前出の兒玉が言う。スヴェンソンは、来夏の東京五輪日本代表に決まっている丹羽孝希の所属先。同代表の水谷隼の支援もしている。それは兒玉が荻村との約束を守り続ける証でもある。

「1964年の暮れ、荻村さんと私が翌年の世界選手権リュブリアナ大会の監督に推挙されました。兄と会社を始めたばかり。私は断ろうと考えていた。すると朝の6時に荻村さんが私の自宅を訪ねてきたのです。“ぜひ一緒に日本のためにやってくれないか”、すごい情熱で説得されました」

 中でも思い出すのは岐阜の強化合宿だ。男子は選手兼監督の荻村を入れて5人、女子が4人。連日10キロのランニングとトレーニングに始まり、6時間の技術練習、カット打ち500本ノーミス、腰に5キロの砂袋を巻いて1分間70回の前陣フットワークなどの猛練習が続く。

「40センチも雪が積もる寒い日でした。“突っつき千本ノーミス”という練習で終わる予定が、ある選手がミスを重ねて終わらない。夜中の12時を回ったから私が“女子もいるし続きは明日に”と進言すると荻村さんは“この課題を達成するまでは徹夜してでもやる。それが本人の今後の人生に必ず活きてくる”と譲らなかった。全員で応援した。そして、ついにやり遂げたのは深夜2時でした」

 荻村は惜しまれながら62歳で天に召された。早すぎる他界。だが、世界中に荻村の遺志が息づいている。緑色だった卓球台を明るいブルーに変えたのも荻村伊智朗だった。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2020年11月5日号掲載

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