卓球界の伝説「荻村伊智朗」道場破りの日々と世界で受けた差別(小林信也)

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「この卓球場には、誰か強い人がくるんですか」

 やせっぽちの高校3年生、荻村伊智朗が訪ねて来たのは1950(昭和25)年9月末。卓球経験のない主婦・上原久枝(当時30歳)が東京・吉祥寺の自宅を改装し「武蔵野卓球場」を開いて10日ばかりの頃だった。

 荻村といえば、毎年日本で開催されるワールドツアー「荻村杯」に名を遺し、米中国交回復の礎となったピンポン外交の仕掛け人ともいわれる卓球界のレジェンドである。

 そんな荻村が、その日の思いを、同卓球場40周年記念誌にこう記している。

〈西高から歩いて三キロ、電車賃を節約し、母親の古本を売った金をポケットに、うわさの新しい卓球場をみにきたのだ。値しない金は遣えない。押し入れの中に山と積んであった本も、あらかた奥の列は売ってしまった〉

 父親を3歳になる前に亡くした荻村は母親とつつましく暮らしていた。終戦から5年。世間は復興の中にあった。またすぐ現れた荻村は武蔵野卓球場に通いつめるようになる。夜遅くまで黙々と卓球を続ける荻村と“番台”から見つめる上原との心の距離は自然と近くなった。詳細は、ノンフィクション作家・城島充が『ピンポンさん』(講談社)に綴っている。

 専修大の主将と荻村が戦う姿を上原が見た光景を城島はこう著している。

〈プレーが途切れたとき、荻村少年はズボンのポケットに突っ込んでおいたコッペパンの先をちぎり、その底から取り出したマーガリンを少しつけて口に放り込んだ。そしてそれをガムを噛むようにくちゃくちゃ咀嚼しながら、汗だくになってラケットを繰り続けた〉

審判にボール踏まれ

 東京のあちこちに卓球場が出来、大勢の人で賑わっていたと教えてくれたのは、荻村と親交の深かった兒玉圭司(スヴェンソン会長)だ。

「私は荻村さんより2学年下です。中学を卒業する春休みに新橋の卓球場に通いつめ、1カ月間ずっと朝9時から夜9時まで卓球に没頭しました。卓球場は勝ち抜き戦、一度負けると順番が回ってくるのに長いと2時間待たされる。待たずにやるには勝ち続けるしかない。でも卓球場には“主(ぬし)”みたいな強い人がいてね。私は春休みの終わりにはその主といい勝負ができるまでになりました」

 荻村もまた武蔵野卓球場の主を倒し、東京中の卓球場を訪ねては“道場破り”で腕を磨く日々を送った。そして54(昭和29)年、イギリスで開催される世界選手権の日本代表になった。個人負担の80万円を自宅に近い三鷹駅頭で募金するなどして集め、見知らぬ人々の篤志でイギリスに旅立つことができた。

 負けるわけにいかない、悲壮な決意を秘めていた。

 私は駆け出しの頃、荻村伊智朗に会ったことがある。荻村の話は鮮烈だった。

「試合中、ボールが審判の足下に転がったから取りに行った。審判が拾ってくれると思ったら、わざと僕の目の前でボールを踏みつぶし、硬さの違うボールをよこした。反日感情がすごいとは聞いていたけど、審判に嫌がらせされるとは」

 荻村は逆境の中、男子シングルスで優勝した。以後、世界一を12回も獲得した。荻村の胸の奥に芽生えたのは、卓球を通じて世界平和を実現する情熱だった。

 私が荻村に会ったのは、日本がモスクワ五輪をボイコットし、ロス五輪を目前に控えた80年代前半。オリンピックは大きく変わり始めていた。野球が公開競技となり、卓球も五輪種目への採用が検討されていた。やがて国際卓球連盟会長になる荻村は言った。

「オリンピックは卓球を必要としている。でも卓球はオリンピックを必要としていません。独自に普及し、発展していますから」

 発想が違う。卓球に誇りを持ち、確信を持っていた。

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