ベランダで物想いの「紀子さま」 皇籍離脱も口にされた「秋篠宮さま」 婚約までの3年余
昭和天皇の喪が明けていない、兄より先、完全な自由恋愛が障壁に
秋篠宮さまが紀子さまにプロポーズをなさったのは1986年6月。「大学近くの交差点の信号待ちで」だった。秋篠宮さまが20歳を迎えられた直後だという。それから婚約内定まで3年余が経過していた。経過していたと言うよりはむしろ、その時間が必要だったとも言える。その間に何があったのか、振り返ってみよう。
(「フォーカス」1989年5月12日号などを基に修正したものです。称号や肩書などは当時のものを採用しつつ、適宜変更しています)
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冒頭の「紀子スマイル」は1989年12月、川嶋家の一家4人で、祖父の墓参を兼ねて3泊4日の和歌山旅行に出かけた折のカットである。
「紀子さまの挨拶は身体を45度くらいに折って、3秒間くらい頭を上げないんです。余りに丁寧なので驚いてしまいます」
とは、取材に当たった芸能担当記者の弁。婚約中で「結婚の儀」の前とはいえ、すでにロイヤルファミリーとしての自覚がおありだったのだろう。
さて、お2人のご婚約はそれまでの皇室のイメージからすると、異例づくめだった。
皇室担当記者によると、
「1989年1月に崩御された昭和天皇の喪が明けていないこと、兄上の皇太子殿下(現在の天皇陛下)に先んじていたこと、そして完全な自由恋愛が障壁となっていました」
「お相手は大学教授の子女とはいえ、教職員住宅の3LDKに住むごく普通のお嬢さん。お二人の交際はよく知られていましたが、どう考えても条件が合わないという意見が大勢でした」
皇室に子女を嫁がせるとなると、実家の経済的な負担は相当なものだとされる。
美智子上皇后のご実家、正田家では、嫁入りの支度に、1959年当時で3000万円も使ったと伝えられている。
“電話ではラチが明かない。帰国した時に話をつける”
「あの頃の秋篠宮さまの場合、皇太子とは立場が違いますが、2億とか3億円とかが必要だったのかもしれません。サラリーマン家庭とそんなに変わらないと思われる紀子さまのご実家・川嶋家では難しいのではとなどとも言われていましたね」
もっともそれはどこまで行っても外野の意見であって、宮内庁関係者に聞くと、
「大学時代に青春を過ごして、自由に配偶者を選んだのは理想的ではないかというのが、上皇后陛下のお考えだったのではないでしょうか」
とはいえ、秋篠宮さまは紀子さまとのご結婚を早くから望まれていたようで、この3年余の間には結婚問題が緊迫した時期もあった。
「学習院大を卒業して英国に留学する前後にも、“兄に良い人がいたら紹介してください”と親しい人に声を掛けられていました」
と学習院大の関係者。これは、「皇太子より先に結婚するのはマズい」と宮内庁サイドからブレーキをかけられていたからに他ならない。
「東宮幹部に英国から頻繁に国際電話を入れていました。“電話ではラチが明かない。帰国した時に話をつける”と仰っていたようです」(先の記者)
「兄上に“結婚相手として誰かにケムリでも立っているなら待つけれど、そうでもないならもう待てない”などとも主張なさったと言います」
挙句には、
「そこまで周囲が反対するなら、“皇籍を離脱してでも”と強い決意を口になさった場面もあったと、様々に報じられましたね」
金のブレスレットやネックレスをしたり、口髭をはやしたり、常にその自由奔放ぶりが話題になってきただけのことはある。
学習院の恩師の1人も、
「周囲に結婚を反対されても礼宮さま(秋篠宮さま)はやるでしょう。それが彼なんです」
と、岩をも通しかねないその意思の強さを語っていたことがある。
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