「大阪桐蔭」出身のピッチャーはプロで大成しない? 平成以降に入団した14名を検証

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 いきなり質問です。北海道日本ハムファイターズの中田翔、東北楽天ゴールデンイーグルスの浅村栄斗、埼玉西武ライオンズの中村剛也と森友哉、中日ドラゴンズの平田良介、そして阪神タイガースの藤浪晋太郎の共通点がお分かりになるだろうか?

 正解は、全員大阪桐蔭高の出身だということ。2012年と18年の2度に渡って甲子園春夏連覇を達成し、まさに高校野球界の頂点に君臨するチームでもある。現在、NPBに在籍している同校出身選手は21人も。これは横浜(神奈川)や広陵(広島)などの強豪校を抑えてトップの数字だ。

 とはいえ、大阪桐蔭出身選手というと、どうしても野手の名前ばかりが真っ先に浮かんでくる。冒頭に記した6人中5人が野手だし、本塁打王6回、打点王4回の中村のようなタイトルホルダーも少なくない。

 これに対して投手のタイトルホルダーといえば、近年では15年に獲得した藤浪の最多奪三振しか思い当たらない。

 そこで今回は、平成以降のドラフト会議で入団した大阪桐蔭出身の投手たちの成績を徹底調査してみた。本当に藤浪以外に大物はいないのだろうか? まずはすでに引退した選手たちから入団順に紹介していこう。

 最初に紹介するのは、91年のドラフト5位で近鉄バファローズに入団した背尾伊洋だ。91年夏の甲子園に控え投手として出場し、決勝戦でも胴上げ投手になるなど、同校の初出場初優勝に貢献しただけに、熱心な高校野球ファンの間では知られた存在だった。

 近鉄では大型投手として期待されたが、1軍登板は96年の18試合と97年の4試合のみ。プロ初勝利こそ完封で飾ったものの、結局白星はこの1勝だけで、計55回1/3を投げて1勝2敗、防御率3・25という成績であった。その後、98年途中に交換トレードで読売ジャイアンツに移籍するも、ケガが原因で1軍登板がないまま、00年に現役を引退している。

 城西大を経て、98年のドラフト3位で千葉ロッテマリーンズに入団した川井貴志はスライダーやスローカーブ、スクリューボールなどを投げ分ける技巧派左腕としてそこそこ活躍したクチである。16年に引退するまで千葉ロッテに7年、東北楽天ゴールデンイーグルスに11年所属し、プロ生活18年で307試合に登板した。622回1/3を投げて28勝36敗、385奪三振、防御率4・51という成績が残っている。そのなかでも絶頂期は02、03年で、02年は51試合に登板し、78回1/3を投げて4勝1敗、奪三振75、防御率は自身最高の2・76をマークした。翌03年は自身最多の54試合に登板し、75回1/3を投げて4勝0敗、奪三振65、防御率は4・42であった。

 3人目の福井強は、同校入学が96年というからいわゆる松坂世代に当たる。速球派のエースとして活躍し、3年夏の大阪府予選も優勝候補に挙げられていたが、3回戦で金光第一(現・金光大阪)に敗れて甲子園出場はならなかった。卒業後はプリンスホテルに進んだが、2年目の00年に野球部の廃部が決まったため、特例措置で規定より1年早いこの年のドラフトで西武ライオンズ(現・埼玉西武)から8位指名されて入団することに。

 と、ここまで書いてもよほど熱心なライオンズファンでもない限り、「誰?」という感じだろう。それもそのハズ、03年のフレッシュオールスターゲームに出場経験はあるものの、プロ4年間で1軍登板はまったくなく、04年に現役を引退しているのだ。

 続く4人、5人目も1軍登板ゼロのまま引退した投手である。4人目は、同校を卒業後に日本生命を経て01年のドラフト4位で近鉄に入団した谷口悦司がその人だ。プロ入り後3年間は1軍登板がないまま、04年オフのオリックス・ブルーウェーブとの球団合併に伴う選手分配ドラフトでオリックス・バファローズに移籍している。だが、翌05年もヒジのケガの影響などにより1軍登板はならず。さらにこの年限りでの戦力外通告を受け、プロ生活わずか4年間で現役を引退したのだった。

 5人目の三島輝史は、2年生時だった02年夏の甲子園出場経験がある。初戦で東邦(愛知)の前に3-5で惜敗。翌03年は夏の大阪府大会の6回戦で敗退し、そのまま同年のドラフトで千葉ロッテから5位指名されて入団した。だが、その後のプロ5年間で1軍登板はなく、08年に戦力外通告を受け、現役を引退することとなった。

 6人目は熱烈な虎党なら、その名を聞けば、「おっ!」と言う人である。いわゆる珍名さんとしておなじみだった桟原将司だ。

 高校卒業後に新日鐵広畑へ。03年にはエースとして5年ぶりとなる都市対抗野球大会出場に貢献し、同年秋のドラフト4位で阪神タイガースに入団している。プロ入り後はスリー・クォーターから最速150キロの直球にスライダーを駆使し、主に中継ぎとして活躍することに。12年の引退までの9年間で123試合に登板し、154回1/3を投げ5勝2敗2セーブ、奪三振155、防御率3・56をマークしている。特に入団1年目は44試合に登板し、54回1/3を投げて2勝2セーブ、52奪三振、防御率3・48をマークし、即戦力投手としての働きをした。

 翌05年も9月までは好調で、26試合に登板し、39回1/3を投げ、1勝(0敗)、奪三振35、防御率も3・66と安定した成績でチームのリーグ優勝に貢献することに。その間には9月6日の中日ドラゴンズ戦で、リーグ史上9人目、球団史上2人目となる3者連続3球三振という希少な記録も達成している。

 だが、その後、徐々に登板数が減少。09年には初登板以来、115試合連続無敗という当時のプロ野球新記録を樹立したものの(10月3日の東京ヤクルトスワローズ戦で敗戦投手となり、連続無敗記録は116試合でストップしている)、登板数自体は15試合、登板回も19回に留まってしまう。

 2年後の11年にはゲガの手術の影響で育成選手契約に。再び支配下選手には登録されたものの、1軍登板がないままシーズンは終了し、戦力外通告を受けてしまった。その後は同年のオフ12球団合同トライアウトに参加し、埼玉西武が獲得を発表したが、翌12年も1軍登板を果たせず。同年オフに2度目の戦力外通告を受けて現役引退を表明している。

 7人目は、サウスポーのドラ1投手である。同校では2年生の秋からエースとして君臨し、3年生時の05年夏の甲子園では1回戦の春日部共栄(埼玉)戦で国内左腕最速となる156キロを計測した。準決勝までの5試合で当時、歴代2位(現在は4位)、左腕では歴代1位(現在は2位)となる1大会65奪三振をマークするなど、チームのベスト4進出の立役者となったのが鉄腕左腕・辻内崇伸であった。この甲子園での活躍を引っさげ、同年のドラフト1位で読売に入団した辻内は当然のようにその将来を嘱望された。それが結果的には13年の現役引退までのプロ通算8年でまさかの1軍登板ゼロに終わったのである。

 それには大きな理由があった。利き腕の左腕の故障だ。左肩炎症に、左ヒジ痛、そして左ヒジ靭帯の断裂と辻内のプロ生活はつねにケガとの戦いであった。特に07年に左ヒジ内側側副靭帯の再建手術を受けたあとは1年以上もリハビリを余儀なくされたのだった。

 最後の年となった13年も、キャンプ中に左ヒジ痛を発症して春に患部の遊離軟骨を除去する手術を受ける始末だった。素質や才能、実力は申し分ないのに、故障に泣いた典型的な例であった。

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