文在寅排除を狙い、米国がお墨付き? 韓国軍はクーデターに動くか
米国防相「盧武鉉は頭がおかしい」
――しかし民主化後の韓国で、軍がクーデターを実行するでしょうか?
鈴置:民主化は1987年。でもその後の盧武鉉(ノ・ムヒョン)時代(2003年2月―2008年2月)にも韓国軍はクーデターを計画した模様です。
厳密に言えば、「クーデターを実施したら支持してくれるか」と米軍幹部に持ちかけた韓国軍の高級将校がいたのです。米軍から自衛隊に非公式な通報があって、日本の関係者にもその話が広まりました。
盧武鉉氏は「反米」を掲げ当選しました。2007年11月、米国のR・ゲーツ(Robert Gates)国防長官とソウルで会談した際「アジアの安全保障上の最大の脅威は米国と日本である」と語りもしました。
「米帝国主義が諸悪の根源」と考える人たちにとって、当然の発想ではありますが、普通の米国人は驚愕します。ゲーツ長官は著書『Duty』の416ページで「盧武鉉大統領は反米主義者であり、たぶん少し頭がおかしい(a little crazy)と私は判断した」と書いています
米国にとっても困った存在だから、クーデターに賛成するだろう、と考える人が韓国軍の中に出たのです。
――米軍幹部は何と答えたのでしょうか?
鈴置:「前の2回は追認せざるを得なかったが今度はもう、許さない」と韓国軍将校に返答したと自衛隊には説明したそうです。「前の2回」とは1961年の朴正煕少将の「5・16軍事クーデター」と、1979年の全斗煥(チョン・ドファン)少将らによる「12・12粛軍クーデター」を指します。
「言うだけ番長」はどやしつける
――この時、米国がクーデターを許さなかったのはなぜでしょうか?
鈴置:盧武鉉氏は「言うだけ番長」でした。大声で反米を唱えても米国から圧力をかけられれば容易に屈しました。米韓FTAを締結しましたし、イラクに韓国軍も派兵しました。いずれも支持層の左派から強い反対のあった案件です。「言うだけ番長」を見切った米国に、クーデターは不要だったのです。
「韓国軍のクーデター相談説」も、圧力の一端だったかもしれません。日本にまで広めることで盧武鉉政権の耳に入るように仕向けた。つまり、「米国が計画の発動を抑えた」ことにしつつ「言うことを聞かないと、韓国軍の手綱を放すぞ」と脅しもしたわけです。
1952年も同じ構図だったのかもしれません。韓国の政界に「米軍主導のクーデター説」を流す。すると李承晩政権も米国の顔色を見ざるを得なくなり強権ぶりにブレーキがかかる、という筋書きです。
――それなら、ニューシャム大佐の論文も「威嚇」に過ぎない?
鈴置:そうかもしれません。ただ15年前と比べ、現在の米国の懸念が比べものにならないほど大きいことを見落としてはなりません。
当時は中国が今ほど台頭しておらず、盧武鉉政権が中国側に鞍替えするなど想像もできなかった。それに今や、米中は本格的な覇権争いに突入しました。韓国の裏切りは絶対に許せません。
キーセンもデモした1960年
――だんだん、クーデター使嗾(しそう)説が本当に見えてきました。
鈴置:ただ、それと韓国軍が実行するかは別問題です。武力で政権を倒しても、国民の支持を集めないとクーデター政権は長続きしません。
朴正煕氏のクーデターはそれなりに支持を集めました。1960年、不正選挙が原因で李承晩政権が崩壊した後、韓国は政治的にも社会的にも混乱に陥った。
混乱を収拾できない政党政治に人々が嫌気した瞬間、朴正煕少将はクーデターを起こしたのです。もちろん、知識人からは批判されました。しかし、普通の人は必ずしもそうでもなかった。
当時を知る人から「あらゆる階層の要求が噴出し、街は毎日デモであふれかえった。キーセンまでがデモをした」と聞かされたことがあります。あまりの混乱に多くの人が困惑していたというのです。
朴正煕氏が1963年、1967年、1971年の大統領選挙で――直接選挙でしたが――野党候補を破ったのも、普通の人々の支持がなければ不可能だったでしょう。
半面、全斗煥少将らの「粛軍クーデター」は不人気でした。1979年に朴正煕大統領が暗殺された後の混乱を収拾するとの名分を掲げましたが、多くの国民からは「権力の簒奪(さんだつ)」と見なされました。
全斗煥氏は1980年に大統領に選ばれました。が、立候補者は1人で、自分の子飼いが選挙人を務める間接選挙でした。直接選挙を実施する自信がなかったのです。
1987年には国民の間から直接選挙を求める声が噴出。全土で大規模なデモが発生し、警察の弾圧による死者も出ました。結局、6月29日、政権側はいわゆる「民主化宣言」を発表して直接選挙制を受け入れたのです。
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