伊東勤、工藤公康、城島健司… ドラフト「裏ワザ」「強硬指名」で入団した8人の名選手

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川口和久、KKコンビ、城島健司…

 80年のドラフトで広島東洋から1位指名を受けた、社会人野球・デュプロの左腕・川口和久にもこんなエピソードがある。そもそも川口本人が広島入りを熱望していた。広島のスカウトの評価も高く、相思相愛だった。そのうえで川口は球団から「他から指名されないよう、故障ということにして1年間投げないでほしい」と頼まれたという。こうして他球団の関係者が来たときには「ヒジが痛い」とアピールし、まんまとこれを信じ込ませることに成功したのである。この年の広島は最初の1位指名で原辰徳を抽選で外したものの、見事に単独の外れ1位で川口の獲得に成功したのだ。

 さて、次は85年に起きたドラフト史上、最大の悲劇である。この年、夏の甲子園を制したのは桑田真澄&清原和博の“KKコンビ”擁するPL学園(大阪)であった。当然のようにKKコンビはドラフトの目玉となるのだが、特に清原は当時、読売の監督だった王貞治の大ファンだったこともあり、同じチームでプレイしたいと読売入りを熱望していた。王も王で「欲しい選手」と名指ししたことで、読売からの指名は間違いないとみられていたのである。

 一方、桑田はドラフト前日まで“早稲田大進学1本”の言動を繰り返していたため、進学は決定的でプロ入りは100%ないものとして、多くの球団が指名を諦めていた。いざ本番では清原に6球団もが競合した。だが、そこに読売の指名はなかった。読売が1位で指名したのはなんと“桑田真澄”で、単独指名に成功したのだ。

 ドラフト終了後には桑田も「早大進学を表明したワケではない」と、突如態度を翻し、読売入団を匂わす発言で開き直った。清原を指名しなかったことで、世間の批判を浴びた読売だった。実は西武も桑田が巨人から1位指名されなければ、外れ1位もしくは2位で指名する予定だったという。もっとも西武は清原を1位指名、抽選の結果、交渉権を獲得したのであった。

 最後は94年のドラフトで福岡ダイエー(現・福岡ソフトバンク)から1位指名された城島健司である。大分県の別府大付(現・明豊)で強肩強打の捕手として活躍した城島は当初、駒澤大への推薦入学が決まっており、プロ入り拒否を表明していた。このため、多くの球団が指名を回避したのだが、このとき西武から福岡ダイエーの専務となっていた根本陸夫はドラフトの前日に行われた12球団スカウト会議のなかで1位指名すると宣言した。このときアマ球界との軋轢を恐れたコミッショナー事務局から警告され、他球団からも猛反発を受けたにも関わらず、ドラフト会議当日も予定通りに1位指名し、会場は騒然となった。

 そこから「進学決定というから指名しなかった。福岡ダイエーのやり方は疑問」という恨み節が続出することとなる。駒大にも内密でことを進めたため、進学先となるハズだった当時の駒大・太田誠監督は「今後、福岡ダイエーには選手を入団させない」と激怒し、アマ球界関係者も「いいことではないが、ルール違反ではないからどうしようもできない」と苦渋の表情を浮かべた。ただし、この“出来レース”とも取れる裏技を阻止するため、これ以降はプロ入り拒否の選手はドラフト会議で指名を受けることができないというルールが定められたのであった。

上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月25日掲載

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