伊東勤、工藤公康、城島健司… ドラフト「裏ワザ」「強硬指名」で入団した8人の名選手
次は81年のドラフト直前に起こったプロVS社会人の“工藤争奪戦”だ。この年の夏の甲子園で愛知県代表の名古屋電気(現・愛工大名電=愛知)は、同校史上初の甲子園ベスト4に進出した。その立役者となったのが、サウスポーのエース・工藤公康(現・福岡ソフトバンク監督)だった。当然のようにドラフトの目玉となり、複数の球団から指名挨拶を受けることに。だが、工藤は父の光義氏との連名で、プロ入りの意向を示してきた9球団に指名拒否の手紙を送った。そしてドラフト前に社会人野球の強豪・熊谷組に内定したことから、プロ側は指名を断念せざるを得なかった。
ところが、である。ドラフト当日、西武(現・埼玉西武)が敢然と工藤を指名したのだ。しかも順位は6位だった。当然、他球団からすれば工藤は西武の指名を断るものと考えるのが普通だ。事実、すでに両親同伴で熊谷組の社長に挨拶までしていることから、誰しもが入社を信じて疑わなかった。ところが12月28日、なんと工藤が西武と仮契約を交わしてしまったのである。
そこから西武と熊谷組による工藤の争奪戦が起きる。熊谷組はかなり抵抗したのだが、翌81年の1月5日にすったもんだの末、西武入りが正式決定することに。その契約金は6位指名ながら6000万円(推定)、年棒も480万円(推定)という破格の額であった。
この工藤争奪戦と同じ年の西武のドラ1選手は、のちの黄金期を支えた名捕手・伊東勤であった。実はこの伊東、前年の夏の甲子園に熊本工の3年生捕手として出場していた。当然、その年のドラフト候補として、各球団獲得も乗り出していたのだが、ひとつ問題があった。実は全日制ではなく、4学年ある定時制に在籍していたため、もう1年学業が残っていたのである。
そこで西武は奥の手を使った。地元の埼玉県立所沢高校の定時制に転校させ、かつ、“球団職員”として採用し、囲い込んだのだ。伊東は昼間は2軍で練習し、技術を磨いていった。当然、他球団は球団職員の伊東に手出しできなかった。
この“球団職員”にする荒技は、この後2度使われることとなる。ともに7年後の88年だった。
まずは阪神である。この年、阪神は定時制に通っていた甲府工のエース・中込伸を地元・兵庫県の神崎工の定時制に編入、同時に球団職員として在籍させ1位指名した。2球団目が中日だ。そのターゲットとなったのが、台湾出身で84年に名古屋商科大に入学していた左のスラッガー・大豊泰昭である。彼を大学卒業後に日本人選手扱いとして日本プロ野球入りさせるため、中日は球団職員として1年間在籍させていたのである。
ただ、中日はこのとき、他球団が大豊を指名してこないだろうと踏んで“2位”で指名した。代わりに1位で指名したのは大阪桐蔭出身の高卒左腕にして、90年代の中日投手陣を支え、日本プロ野球界を代表するエースとして活躍した今中慎二だった。
1位は今中、そして大豊を2位で獲得するという狡猾な戦略であったが、これ以降、大物“球団職員”の指名はなくなっている。
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