伊東勤、工藤公康、城島健司… ドラフト「裏ワザ」「強硬指名」で入団した8人の名選手

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 いよいよ運命のドラフト会議が迫ってきた。今年は投手なら早稲田大の最速155キロ左腕・早川隆久で、野手なら近畿大の左のスラッガー・佐藤輝明というのが、各球団の評価だろう。

 現在は高校生・大学生のドラフト対象選手はプロ志望届を出すことが義務づけられているが、1978年の“江川事件”が有名なように、かつてはドラフトの抜け道を見つけて有望選手を獲得しようと各球団が情報戦を展開していた。そこで今回は、そんなひと昔ふた昔前のドラフトで駆使された“奇策”や“強硬指名”で入団した有名選手をご紹介しよう。

 ドラフトの穴を狙った最初のケースとされるのが、1968年の“新浦争奪戦”といわれている。この年の夏の甲子園で静岡商を準優勝に導いた左腕エースの新浦壽夫は、このときまだ1年生であった。だが、前年の1年間は定時制に通っていて、春に全日制の1年次に編入していたのである。つまり、高校で野球ができるのはあと1年のハズだったが、実は当時の新浦は“韓国籍”だった。

 当時の規定では、日本の学校を卒業していても外国人はドラフトの対象外だった。これを知っていた阪急(現・オリックス)はその1年も前に学校側に打診していたほどだった。そこに遅れて参戦したのが、読売、東映(現・北海道日本ハム)、大洋(現・横浜DeNA)、広島東洋、中日、そしてメジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツだったのである。

 慌てた新浦サイドが親族会議を開き、“中途退学→プロ入り”を決めたのは夏の甲子園終了からたった9日後の8月31日、そこから最終的に読売入団が発表されたのは9月9日のことだった。約10日間の争奪戦であった。ちなみにこの騒動がきっかけとなり、その後、外国人であっても“日本の学校に在学したことのある選手”はドラフト指名の対象選手になっている。

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