余命わずかで国立競技場を沸かせたアメフト「ジョー・ロス」 伝説の75ヤードゲインの舞台裏(小林信也)

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 銀座あづま通りの喫茶店で、アメリカ暮らしの長かった老紳士と会った。

「スポーツビジネスが本格的に始まる前だからなあ。苦労ばかりだった」

 語るのはいまもLPGAツアーの大会オーガナイザーを務める川名松治郎。新聞社の社会部から運動部に転じ、1964年の東京五輪を取材後、スポニチテレビニュース社のロサンゼルス支局長として海外に渡った。まだ30代前半だった。

「支局長といっても初めは何でもやらされた。ジャイアント馬場に続くスターを育てようと柔道日本一の坂口征二がプロレスにスカウトされた」

 武者修行に来た坂口のお供を務めた時期もあった。

「リングでは坂口がスマートに勝って降りくるんだけど、その後が大変だった。控室で先輩レスラーに殴られ蹴られ、大変な目に遭う。私はどうにもできなかった」

 やがてアメリカは建国200年に向けたお祭り騒ぎに包まれた。川名も、アメフトの「学生オールスター戦日本開催」を企画した。

「アメリカの人気ナンバーワンスポーツを日本人に見せてやりたい!」との意気に燃え、全米大学体育協会(NCAA)本部のあったカンザスシティに乗り込んだ。

「最初は“無理だ”の一点張り。私は飛行機で10回はカンザスに通いました」

 熱意が通じ、ようやく「フラボウルの後なら行ってもいい」と承諾を得た。大喜びで日本に報告すると、今度は本社の反対にあった。

「アメフトなんて日本じゃ誰も興味がないだろ」

 思わず川名は叫んだ。

「国立競技場を満員にしてみせます!」

 すぐ上司に怒鳴られた。

「せいぜい500人が関の山だ。失敗したら首だぞ」

 それでもあきらめず、開催にこぎつけたのが76年第1回ジャパンボウル(全米大学オールスター東西対抗戦)だ。テレビ、新聞の協力も得て、国立競技場に6万8千人の大観衆が集った。

ガンが再発

 1年だけのつもりが、翌年も開催が決まった。第2回ジャパンボウルには後にプロで活躍するトニー・ドーセット、リッキー・ベル、さらにはカリフォルニア大バークレー校のクォーターバック、ジョー・ロスの来日が決まった。ジョーは正確無比のパスが持ち味。NFLのドラフトでは1位指名が確実視されていた。193センチの好男子。女性の来場も期待できる。だが開催直前、思いがけないニュースが流れた。

“ジョー・ロスがガンに冒されている”、ロサンゼルス・タイムズが一面で大きく報じた。川名は大慌てでジョーの滞在するホノルルに飛んだ。

「ホテルを訪ねるとジョーはベッドで横になっていた。東京でのプレーは無理だと一目見てわかった。けれどジョーは私を見るなり言ったんだ。『あなたが来るのはわかっていました。何を言いたいのかもね。でも日本に行かせてください。自分は必ずプレーします』と」

 説得したがジョーは聞かなかった。医師もコーチも反対したがジョーの意志を尊重し、日本に連れて来た。

 最初の発病は19歳の時だった。白人の発症率が高い皮膚ガンの一種。ヘルメットで首筋のホクロがこすれ発病したと診断された。手術で摘出し、ジョーはフィールドに戻った。完治したと本人も医師も思っていたガンが再発したのだ。

 来日後の練習でも病状の悪化は明らかだった。

「パスの弾道が低い、ボールに力がない。出場は無理だ」。川名の耳元でプロのスカウトが無念そうにつぶやいた。誰もがいたたまれない思いで天を仰いだ。

 77年1月16日。それでも西軍は前半途中、ジョーを起用した。スタンドのファンの多くがジョーの病気を新聞等で知っていた。悲鳴にも似た声援が飛ぶ。ジョーはパス6回のうち5回成功。75ヤードのゲインで西軍勝利に貢献した。ジョーの雄姿は日本のファンに特別な感情と余韻を残した。

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