学生の「読書時間ゼロ」50%で日本は終わる!
文学よりも実用文
このような実態を踏まえてのことだろうが、今、国語教育に大きな変革の波が押し寄せている。センター試験が廃止になり、それに代わって大学入学共通テストが導入されるのは、2021年となっており、もう目前に迫っている。名前は変わっても、内容が実質的に変わらないなら何の心配もいらないが、じつは内容も大きく変わる可能性があるのだ。
というのは、この新たに導入される大学入学共通テストのモデル問題が2017年に示されたが、国語の問題をみると、あからさまに実用文にシフトされていたからである。そこでは、自治体の広報文や駐車場契約書の読み方をめぐる問題が出題されたのである。
これをみた教育関係者の間に衝撃が走った。学校の国語の授業といえば、著名な作家の小説を味わうことで人生について深く考えたり、詩歌の鑑賞によって心を豊かにしたり、評論を読んで社会を見る目を養ったりするといった印象がある。国語が自治体の広報文や駐車場契約書の読み方を学ぶ教科だといった認識はなかった。それは私だけではないだろう。
しかし、これから大学入試で実用文の読み方をめぐる文章が出題されるとなれば、高校の国語の授業も小説や評論などの読解から広報文や契約書など実用文の読解へと移行せざるを得なくなる。多くの高校生にとって大学入試突破が人生を大きく左右するものである限り、高校の授業はそれを支援する方向に進まざるを得ない。
まさか、そこまでの変革はあり得ないだろう、国語の授業は著名な小説や鋭い評論を読んで教養を身につける場だし、そんな実用文はわざわざ学校の授業でやるようなものじゃないはずだ――そのように楽観視する人が多いものと思われる。
だが、じつは楽観してはいられない事情がある。2022年の高校1年生から年次進行で順次適用される高等学校学習指導要領によれば、わかりやすいように簡略化すると、これまで高校2・3年生が学んできた「現代文B」という科目が「論理国語」と「文学国語」に分かれ、いずれかを選択することになる。
新たな科目である「論理国語」では、論説・評論・学術論文などの論理的な文章の他に、報道や広報の文章、案内、紹介、連絡、依頼などの文章、法令文、キャッチフレーズ、宣伝の文章などの実用的な文章が盛り込まれることになっている。
もし大学入試で、社会に出たらさまざまな機会に読まなければならない実用文をきちんと読解できるかを問う問題が出ることになるなら、文学を鑑賞したりするよりも、実用文を中心に論理的に読解する授業をせざるを得ない学校が多くなるはずだ。その場合、「文学国語」でなく「論理国語」の教科書で学ぶことになる。それにより、従来は多くの著名な文学作品に国語の授業を通して触れていた高校2・3年生が、そうしたものに触れずに過ごすことになる。これは国語の授業の大変革以外の何ものでもない。
では、なぜこのような大変革、教養や思考力・想像力を重視する立場の人たちからすれば、大改悪の流れになってきたのか。そこには本稿の冒頭で紹介したような読書離れと並行して進行中の読解力の低下を何とかしなければならないといった教育的な意向が深く絡んでいると思われる。
実学志向の是非
企業経営者たちと話すと、指示された内容や客からの要望など人の話をちゃんと理解できない若者が多くなり困っているといった嘆きの声をよく耳にするようになった。人が話す内容を読解できないのだ。
当然のことながら事務的な文書をめぐるトラブルも多い。そこで実務的な文章の読解を訓練すれば、社会に出てから本人も困らないし、周囲を困らすようなこともなくなるはずということで、実用文重視といった発想が出てきたのだろう。
だが、それでいいのだろうか。このような方向に歩み出すことにより、本を読まない子どもや若者はますます本を読まず、実用文が読めればいいという感じになっていき、言葉が貧しく、想像力も思考力も教養も乏しいままになってしまう。実用文も読めないのでは社会生活に支障が出るというのは事実としても、学校教育では実務教育以上の頭の鍛錬を放棄すべきではない。もっと根本的な問題について考える必要があるのではないか。
まず指摘したいのは、このところ顕著な実学志向の動きである。教育現場に40年近く身を置く者として、学生たちのさまざまな変化を肌で感じているが、そのひとつが実学志向だ。学生たちは、「この勉強が就活に役立つか」「この科目が就職してから仕事にどのように役立つか」を基準にして受講科目を選んだりする。これには企業の側が即戦力を求めるようになっており、それに呼応して教育行政側が教育内容を実学中心へとシフトさせようとしていることも大いに関係しているのだろう。だが、それでは学びの場がどんどんやせ細ってしまう。
つぎに指摘したいのは、脱知識偏重教育というお題目である。知識詰め込み型の教育はまずいとし、知識偏重からの脱却が盛んに唱えられているが、果たして今の子どもや若者は知識偏重の教育を受けているのだろうか。教育現場の実情を知らない大人たちは、メディアを通して流される知識偏重批判に同調しがちだが、現状は知識偏重どころか知識軽視としか思えない。
たとえば、英語で書かれた文化評論を日本語に訳す授業を受けるのと、英会話の練習をする授業を受けるのでは、知的鍛錬の度合いも違えば、身につく教養の深みも違う。英会話中心の授業を受けてきたため、英語に関する知識が乏しく、英文を読んで日本語に訳すことをしっかりやっていないため読解力が鍛えられておらず、外国人との単純な会話はできても、英語の文献を読みこなすことができない学生が多い。そのせいで文献講読の授業が成立しない大学も少なくない。
知識受容型の教育から脱却し、主体的に学ぶ教育で考える力を身につけるというが、知識なしに考えるというのは一体どういうことなのだろうか。まるで知識が思考の邪魔をするかのような議論が横行しているが、ほんとうにそうだろうか。それぞれの専門分野を極めた知識人や博学な教養人が発信する内容より、知識も教養も乏しい人が発信する内容の方が、深く考えられたものであり、今後の日本社会はそちらを重視する方向を目指すとでもいうのだろうか。
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