巨人、リーグ制覇目前でも「菅野」「戸郷」への心配と課題【柴田勲のセブンアイズ】

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 2年連続のリーグ制覇を目前にしている巨人がここに来て足踏みをしている。21日現在で優勝マジックは「7」、最短優勝は23日の阪神戦(東京ドーム)となる。

 20日のヤクルト戦(神宮)に先発したのは戸郷翔征だった。アレッと思った。本来はチームの大黒柱で「火曜日の男」菅野智之の出番だったはずだ。

 どうやら、17日のDeNA戦(横浜)が雨天中止となり首脳陣が先発陣の日程を再考したという。それも日本シリーズをにらんでと聞く。

 今年の日本シリーズ開幕は11月21日の土曜日だ。逆算して菅野を24日・土曜日の阪神戦に中10日で先発に起用、これ以降の日程を見据えると土曜日に3度の先発が可能だという。土曜日をエースに任せる方針となり、で、中8日での戸郷の起用に至ったという。

 だが、私はもっと別な狙いもあると思っている。前回の今コラムで記したが、菅野は13日の広島戦(東京ドーム)に先発したもののいつもの菅野ではなかった。

 マウンド上で覇気がないというか、だるそうに投げていた。開幕からローテの中心として投げ続けてきた。負けられないという重圧もあったろう。連勝記録の意識もあった。

 それにしては変化球でかわし、制球力も悪い。ボールも高かった。「らしくない」と表現したが、今回の措置は十分な休養を取らせたいとの考えもあったのでないか。おそらく肉体的、精神的にも疲れがかなり蓄積しているのだろう。ちょうどいいタイミングでのローテ再考になったと推察する。

 さて、その戸郷だが、6回を打者27人に対し球数134で被安打3、失点は0だったが、6四球からわかるように決して褒められた内容ではなかった。0で抑えたというよりも、0で止まったという感じだ。

 やたら3ボール2ストライクが多かった。

 これもストライクとボールがハッキリしていたからだ。ストライクが先行しなければ、得意のフォークは振ってくれない。もう少し際どいところに投げることも大事で、今後の課題だろう。

 投球の考え方を振り返ることも必要だ。打者は投手と勝負するが、投手の場合は自分との戦いになる。

 投手はブルペンで投球練習をするが、いいボールを投げ込むことでマウンド上でのイメージを描く。ブルペンでボールを投げる練習はしない。そしてマウンドに立った時はいかにしてイメージした自分の投球をするかになる。できるかになる。

 私は投手として入団した。1年目の1962年に阪神との開幕第2戦にも先発したが、高校時代から打席には案山子(かかし)が立っていると思って投げていた。自分の投球をすることしか考えていなかった。

 そりゃ好打者は3回に1回は打つ、打てない野手でも5回に1回は打つ。打たれた、抑えたは結果論であって、まずは自分の投球をする。これが先決である。

 ところが、この打者はここが弱い、あそこが強いといったデータにどうしても振り回されてしまう。

 20日のヤクルト戦、1点リードの9回に登板したルビー・デラロサが2死一、三塁のピンチを招いた。青木宣親を迎えて原辰徳監督は左の大江竜聖にスイッチしたが、四球で満塁。さらに山田哲人を迎えて田中豊樹を起用したもののストレートの四球で押し出し同点となった。

 デラロサが先頭・中村悠平に与えた四球が同点劇のきっかけだ。原監督は不安を感じたのだろう。

 気の毒だったのは田中豊である。ビビッていたし、腕が縮こまっていた。ブルペンではよかったのだろう。だから起用したと思うが、厳しい場面での典型的な投球となった。

 自分の投球ができなかった。

 戸郷にしても開幕からの起用で、投げさせてもらえる喜びがあったろうし、無心で投げていたと思う。自分の投球に徹していた。

 最初のうちは新人王なんて考えなかったと思う。ところがここに来て、新人王争いの真っただ中にいる。周囲はもちろん、自分自身も意識する。どうやって抑えるかが先走り、自分の投球ができなくなる。

 迷った時は基本に帰る。今後より以上の飛躍のために心がけてほしい。

 また大江、田中豊にはいい経験になったと思う。

 23日からは東京ドームで阪神3連戦。原監督の胴上げは最短で25日になりそうだ。26日はドラフト会議である。巨人は近大・佐藤輝明内野手の1位指名が最有力だという。アマ球界屈指のパワーヒッターで、大学入学直後は外野でその後は三塁をメーンに守っていたという。

 亀井善行が38歳、丸佳浩は31歳、今季は松原聖弥が台頭したものの、来季はどうなるか分からないし、どちらかといえば俊足好打のタイプだ。大砲候補がほしい。

 佐藤には外野手を想定することになるだろう。でも、すべてはドラフトの結果次第である。今週末から週明けにかけて巨人からますます目が離せない。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月22日掲載

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