「父の死」を受け入れるには30年以上必要だった 養老先生が語る「身近な死」の影響
志村けんさん、三浦春馬さん、竹内結子さんら、有名人の突然の訃報が続いていることもあり、今年はいつもよりも死について考えてしまう……そんな方も多いことだろう。たとえ自殺などでなくても、身近な人の死は、周囲に大きな影響を与える。ときにその影響は数十年も続くこともあるようだ。『バカの壁』で知られる解剖学者の養老孟司さんは、著書『死の壁』で、お父さんの死と自身の性格についての印象的なエピソードを綴っている。いかに死が与える影響が大きいかを深く考えさせる文章だ。以下、同書から抜粋して引用しよう。
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30年後、地下鉄で泣き出すまでは父の死を実感できていなかった
父は、私が4歳のときに亡くなりました。その頃のことは私の一番古い記憶と結びついています。
父が亡くなったのは結核が原因でした。私のもっとも古い記憶が、その結核で寝込んでいる父の姿なのです。
父の枕もとになぜか赤ん坊のガラガラがあった。なぜ大人の部屋に子供のおもちゃがあるのだろうかと思って見ていたら、父が「これは声が出ないから、人を呼ぶために使うんだよ」と説明してくれました。子供の視線をたどって丁寧に説明してくれる、そういう気配りが出来る人だったようです
父が亡くなったのは夜中だったので私は寝ぼけていました。臨終の間際に親戚に「お父さんにさようならを言いなさい」と言われました。でも言えませんでした。その後、父は私に微笑んで、喀血(かっけつ)して、そして亡くなりました。
幼い頃の私は内気な子どもだったようです。近所の人に挨拶が出来なかった。挨拶が苦手な子どもでした。
父の死については、よく思い出していました。しかし、それを本当に受け止められたのは、30代の頃だったと思います。きっかけはおそらく、その頃身内の通夜や葬式をやった。それが子供の頃の追体験のようなものになったのではないかと思います。当時、身内といろいろと採めて感情が不安定だったことも影響していたのかもしれません。
その頃、ふと、地下鉄に乗っているときに、急に自分が挨拶が苦手なことと、父親の死が結びついていることに気づいた。そのとき初めて「親父が死んだ」と実感したのです。そして急に涙があふれてきた。
もう父の死からは30年近くたっていたにもかかわらずです。私はその時点まで父が死んだということが実感できていなかったのです。頭ではわかっていても、無意識にそれを否定していたのです。
それでも、その時は、まだ父親の死についての解釈がきちんと出来ていたわけではありません。しかしそれがきっかけで少しずつ、これまで自分が無意識に閉じ込めてきたことがほぐれてきた。大体解けたと思ったのが40代になってからで、きちんと語れるようになったのは50歳を過ぎてからのような気がします。
「挨拶が苦手なこと」と「父の死」
父の死を実感して、その死についていろいろと考えていくうちに謎が解けてきました。挨拶が苦手なことと、父の死の記憶は直結していたのです
私は父が死ぬ直前に、挨拶を促されたがしなかった。父はその直後に亡くなった。
私は無意識に、自分はまだ別れの挨拶をしていない、だから父とはお別れをしていない、と思っていたのです。それはつまり、父の死を認めていないということです。だから、地下鉄で泣き出すまでは父の死を実感できていなかったのです。
また心のどこかで、人に挨拶をすると、相手が死んでしまうというような意識もあったのかもしれません。そういうことを無意識のなかで思っていたのでしょう。
その解釈が正しいと思えるのは、それがわかってから、挨拶というものが気にならなくなったからです。それまでは苦手意識が強かったのです。
苦手意識があったということは、つまり何かが心のなかで引っかかっていた。単純に考えれば、内気だからとか人見知りだからというような解釈が出来るはずです。でも、そんな解釈で自分が納得できていたら、そもそも心に引っかかることではない。しかし、そういう解釈ではどこか居心地が悪かった。
ところが、その原因が父親の死と関係があると思った後は、その居心地の悪さがなくなった。実際に挨拶が上手になったかどうかはわかりません。なぜならそういうこと自体が気にならなくなってしまったからです。
精神分析の効用は、おそらくこういうところにあるのでしょう。それまで何か心のなかで引っかかっていたものが消えると、心にかかっていた無駄な負荷が無くなる。そうすると自由になるから、他のことがスムーズに出来るようになる。
それまでに私は何度か交通事故を起こしたことがありました。オーストラリアで生活していた頃です。運動神経の問題だと言われるかもしれませんが、どうもそれもこういう心にかかっていた負荷と関係があるように思います。
私の勝手な言い訳ではありません。交通事故を起こしゃすい性格というのは、精神科医の「自由連想」で引っかかる人だそうです。
「自由連想」というのは、精神科医が相手に何か適当な単語(たとえば「森」とか「湖」とか)を投げかけて、そこから連想する言葉を引き出すという手法です。これをやっていると、ある単語で引っかかって連想が出てこないということがあります。答えるまでに時間がかかる。
その単語は、その人の中で何か抑圧がかかっている単語だというように解釈されます。おそらく私の場合は「挨拶」なのか「さようなら」なのかはわかりませんが、そういう挨拶に関わる単語が引っかかっていたのでしょう。
別に運転中に「挨拶」について思いを馳せていて、それでボーッとしていたというような単純なものではありません。しかし、何か心のなかに引っかかりがあると、動きがぎこちなくなることがある。
不思議なことに、こういうふうに父親の死を実感できて、解釈も出来るようになってくると、逆に父親に関するシーンを思い出さなくなってきました。幼い頃の父の思い出というのが、いくつかふと浮かぶということがそれまではあったのに、無くなった。それについてこんなふうに書いたり語ったりしているから、そのおかげでまだ憶えていますが、そうじゃなければ殆ど忘れてしまっていたのではないでしょうか。
記憶というのはそのへんが面白いところで、感情的に刺激が強い体験があると強化されるという面があるようです。それがたとえ抑圧的な記憶にしても、その抑圧を保持するためにかえって強化されていく面がある。だから私は、抑圧が無くなった時点からどんどん忘れていくようになったのです。
私の場合は、まだ4歳で理屈もわからない年齢だったから、父の死が無意識に与えた影響も大きかったのでしょう。これがもっと理屈でわかる年齢だったら、影響の程度もずいぶん変わっていたかもしれません。
それでも死は周囲に大きな影響を与えるということは間違いありません。安易に自殺を考える人に代表されるように、現代はそれを忘れている人が多いように思えます。
死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事
いずれにしても、そういう周囲の死を乗り越えてきた者が生き延びる。それが人生ということなのだと思います。そして身近な死というのは忌むべきことではなく、人生のなかで経験せざるをえないことなのです。それがあるほうが、人間、さまざまなことについて、もちろん自分についての理解も深まるのです。
だから死について考えることは大切なのです。
小学1年生のときに、同級生が亡くなったことがありました。いかに戦時中とはいえ、その年で同級生が亡くなるのは珍しかった。そのせいか今でもそのとき彼の家でお焼香したことやお悔やみを言ったことを憶えています。今でもよく彼について思い出します。
級長をやっていたくらいだから、人望もあったし、賢い少年でした。彼について思うときには、「神に愛される者は早死にする」という言葉を思い出します。いい人というのは、どこか自分を無意識に投げ出してしまっているようなところがあるのではないか。他人を陥れたりすることが苦手な人はそういうふうになって、生き残っている私たちとはどこか違うのではないか。そんな気もします。
もしも父親が早くに亡くなっていなければ、私はもっと脳天気で社交的な人間になっていたのかもしれません。仕事もまったく別のものを選んでいたかもしれません。二人称の死(注:身近な人の死)というのは、さまざまな形で後遺症を残します。
でも、その後遺症がいい、悪いということは簡単には言えない。そういうものをそもそも含んでいる、それが人生なのです。それについては別の道は無い。他の選択肢は無いのです。一度死なれたら、やり直せといっても無理な話です。
死にいい面があるというとなかなか理解されないでしょう。だから別の言い方でいえば、死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事なのです。「死んだら仕方がない」というふうに考えるのは大切なことなのです。それを知恵と呼んでもよい。
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さまざまな訃報で気が滅入るのは決しておかしなことではないだろう。しかし、そこから思考が負のスパイラルに入らないようにしていくのが大切なのだ。