勝新太郎vs三船敏郎… 公開から50年「座頭市と用心棒」の煮え切らなさ
湯浅学「役者の唄」――勝新太郎(8)
岡本喜八監督の映画「座頭市と用心棒」は、1970年11月に公開された。勝新太郎の「座頭市」20作目にして、三船敏郎が演じる用心棒との対決を描いた本作は、シリーズ最大のヒットを記録している。が、音楽評論家の湯浅学氏はその煮え切らなさを指摘する……。
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市の飯を食う喜び
職業は何か、といったら、按摩でございます、と答えるだろう。それ以外に何か副業はあるか、といえば、ございません、というだろう。あるいは枕詩として“やくざな”按摩ということは、あるかもしれないが“やくざ”を生業としているわけではない。座頭市はとりたてて金を儲けるためだけの仕事はしていない。まとまった金が必要な状況に陥ったときには賭場へ出向いて調達する。その“状況”というのも市の私欲によってもたらされることはない。たまたま出会った者たちとの関係によって“まとまった金”の必要性が生じるのであって、市が希望したものではない。
市は自分から動く、働きかけるのはほとんど相手あってのことである。明日はどこへ行こうか、というくらいの望みはあるものの、市の経済活動が、毎日の飯のためという基本から大きく逸脱することは、本来的にはほとんどない、はずだ。
終わりがあるとは思えない座頭市の物語が生まれたのは、市が飯代を調達するにあたって、やくざ者たちを殺(あや)めたことから始まった。
やくざとの因縁には終わりがない。
市にとっての暮らしとは、逃げること、あるいは、自分自身を守ることである。そこに思想は無縁であるはずだ。加えて、市に宗教上の戒めがないとするならば、だ。
市にとっての欲望とは、そうすると、何なのか、という疑問が湧かないでもない。しかし、むしろ、市の望みが小さなものであるからこそ、毎回いざこざに巻き込まれるのだとわかってくる。ほとんど唯一といってもよい、市のあからさまな欲望とは、食欲である。握り飯を、市はむさぼり食う。次の食事がないかもしれぬ、市の日常感を伝える食い方を勝新は見せる。米粒を両手にくっつけ撒き散らし一度に大量にほおばりしばしばたくさんこぼれ落とす。今食っておかねばならぬ、との必死の食事だが、空腹の者がたまたまそばにいるなら、必ず分け与えてしまう。
食事の最中に襲いかかられることもある。その場合握り飯は放り出されてしまう。もったいないことだ。しかし斬り殺されては飯を食う喜びが消えてしまう。
それだけのことで市は生き続けているのかもしれない。市にとっての銭とは多くが米粒に還元される。博打はそこから派生した娯楽なのではないか。しばしば娯楽は欲望を刺激する。刺激は欲望を拡張する。しかも市の場合、娯楽もまた因果(死)と隣り合わせにある。
緊張の中で生き続けているようで、市が大らかに感じられるのは、その欲望の小ささに起因しているわけである。
用心棒との差がそこにある。
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