監督「長嶋茂雄」94年の優勝、知られざる舞台裏 チームを一つにした戦略とは(小林信也)

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 打者・長嶋に光を当てた前回に続き、今回は監督・長嶋の「覚醒」を書く。

 長嶋茂雄は、1992年秋、12年の“浪人”の末、巨人監督に復帰した。途中、横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の監督就任を決意しかけた。大洋と長嶋の仲介役だった深澤弘(元ニッポン放送アナウンサー)が回想する。

「最後の決断にあたって、長嶋さんは信頼する後援者4人に相談をした。すると2対2で意見が分かれてしまった。それで長嶋さんから、『やはり大洋には行けない』と連絡を受けた時、私は全身の力が抜けてへたり込んでしまいました」

 後に巨人監督復帰が決まった翌日、深澤に会うなり長嶋は言った。

「落合を獲れないか」

 中日の落合博満を巨人の4番にと長嶋は熱望していた。ちょうど、FA制度の導入が検討されていた。

「今年は無理です。来年なら可能性はあるでしょう」

 深澤の助言に長嶋は渋々うなずいた。長嶋の意を受け、深澤は翌年、落合が遠征で上京するたびそれとなく交流した。落合は当初、「現役生活も残り少ない。中日から動く必要もない」と考えていた。しかしオフになり、本当にあの長嶋監督が頭を下げて自分を誘ってくれた。信子夫人もためらう落合の尻を叩き、巨人入りを強く勧めたため、落合は巨人へのFA移籍を決心した。だが世間は批判的だった。

「すでに力が衰えている」「いまさら落合を獲ったらかえってお荷物になる」、懐疑的な声が大勢で、長嶋監督への失望も広がった。

孫の代までの恥

 キャンプインの前、私は雑誌「ナンバー」の巻頭特集で、長嶋と落合に単独インタビューする機会に恵まれた。長嶋は熱く語った。

「落合を獲るのは数字じゃありません。落合が一塁を守っていたら、ダイヤモンドに“もうひとりの監督”がいるようなもの。その存在感が大きいのです。数字なんて打率2割8分、ホームラン15本で十分です」

 続いて会った落合は、ぶっきらぼうだが、いつになく力強い調子で明言した。

「長嶋さんを男にすると言って来たんだから、優勝できなかったら孫の代までの恥になる。子どものころから憧れていた長嶋さんが頭を下げてくれたのだから、絶対にやりますよ」

 ふたりの強烈な熱と覚悟に打たれ、私は「長嶋巨人は優勝する」と書いた。読者や野球関係者は、そんな私の原稿に冷ややかだった。

 その年(94年)、公式戦がとんでもない展開になったのは、野球ファンならずとも知っている。巨人は開幕ダッシュに成功、独走態勢を築いたが夏場から失速し、広島、中日の追い上げを許した。そしてついに、最後の1試合を残して69勝60敗で中日と並んでしまう。しかも最終戦が両者の直接対決。史上初の勝った方が優勝、長嶋監督が「国民的行事」と形容した“10・8決戦”となったのだ。

 さて、どんな順序でこのドラマの深層を伝えたらいいだろう。広く知られる逸話から書こう。決戦当日、ナゴヤ球場に向かう直前、滞在先の名古屋都ホテルの一室に全員を集め、ミーティングが行われた。緊張でこわばる選手たちを前に、長嶋監督は力強く叫んだ

「オレたちは絶対に勝つ」

 この一言で、選手全員が雄叫びを上げ、巨人は一丸となった。「不安が消えた」「本当にもう勝ったような気持ちになった」と多くの選手が試合後証言している。その話をファンたちは、長嶋監督得意の瞬間芸、燃える男の放熱だと理解した。だが違う。この一言に至る周到な戦略があったことはあまり知られていない。

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