ノブコブ徳井が相方・吉村との20年を語る 「殺意」はやがて「感謝」になった…

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相方に抱いた殺意

 ついでなので、我々がまだ兄弟じゃなかった頃に、僕が覚えた3つの殺意について書いてみる。

 あれはコンビを組んで1年経つか経たないか、まだ初々しい20歳前の頃。吉村が書いてきたネタの通りに練習をしていたが上手くいかず、吉村が大きなため息をつき持っていたペンを置いた。

「あーあ、俺が二人いたら良かったのにな」

 この時が最初の殺意だった。

 2つ目は、前述の「ラ★ゴリスターズ」解散事変の時。「解散だ解散だ!」とまるで国会のように楽屋で激昂しながら吉村が言った一言。

「お前の大喜利を面白いと思ってる奴なんて、一人もいねーからな」

 殺意と共に、どんなにつまらなくても僕はこの男より大喜利は面白くなろうと心に刻んだ。

 3つ目は、M-1グランプリの出場資格もなくなり、次の目標はキングオブコントとなったコンビ結成11年目頃。

 当時あった品川よしもとプリンスシアターというホテルに併設された劇場で、大阪から来た後輩たちとライブをやった後。お疲れ様でした、と各々が挨拶をし合う中、若手と喋っている僕に向け、また激昂した吉村が叫ぶ。

「ボケもツッコミもトークもできなかったら、お前何ができるんだよ!」

 あの時、ナイフを持っていなくて本当に良かった。

転機となったマツコ・デラックスの番組

 そんなこんなで僕は彼に対する殺意をモチベーションに、15年目まで芸人を続けてきた。芸歴10年を超えたあたりから、仕事は多少なりとも増えていった。

 大きなきっかけとなったのは『(株)世界衝撃映像社』という海外ロケ番組。当時今ほど売れていなかったマツコ・デラックスさんをコメンテーターに置くというとても攻めた番組だった。多額なロケ費用の割に視聴率が取れない、という悲しい理由で、半年ほどで呆気なく終わってしまったが、あのままあの番組を続けていたら、きっと誰かが死んでいたとも思うので、それはそれで良かったのかもしれない。

 あの番組で核となっていたのが、自分で言うのも何だが僕らのやっていた部族ロケだ。世界中のいろいろな部族を訪れ衣食住を共にし、最後は涙のお別れをするというクレイジーなウルルン滞在記。勧められたら虫を食べるのも当たり前、体を張る系のロケだった。

 企画自体はさっくりしていたけれど、スタッフさん方の編集と台本と、僕らロケ出演者の粘り強さもあってか、徐々に風向きが、特に、僕への風向きが変わっていった。

「なんだ、徳井って頭おかしいけど、面白い奴なんじゃん」

 これが大きなきっかけになり、『ピカルの定理』というフジテレビの番組にも参加できることになった。期待の若手が集められたコント番組で、この『ピカルの定理』が始まったのが芸歴11年目くらい。そう、品川よしもとプリンスシアターで僕が吉村に激昂された頃だ。

 世間では順風満帆に見えたかもしれないあの頃も、僕は相方に絶賛殺意抱き中であった。

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