パリ「失敗テロ」が浮き彫りにした「付き添いなき未成年」問題

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 「パリ11区ニコラ・アペール街」と聞くと、フランスでテロ問題にかかわる人ならピンとくる。バスチーユ広場近くの下町に位置するこの通りの10番地に、風刺週刊紙『シャルリー・エブド』編集部がかつて入居し、2015年1月7日にイスラム過激派テロの標的となったからである。

 この地番で、編集部内の10人とビルメンテナンス会社の1人が殺害された。事件は、表現の自由に対するイスラム過激派の挑戦として、またその後フランスやベルギーで相次いだ大規模テロの連鎖の始まりとして、世界の注目を集めたのだった。

 それから5年半あまりの今年9月25日、同じ場所で、再びテロが発生した。道端にいた人々を男が刃物で襲い、2人にけがを負わせたのである。場所が場所であり、また『シャルリー・エブド』事件を巡る裁判が開廷中の折でもあり、大きなニュースとなった。

 同時に、被害は比較的小規模だった。とっくに移転した『シャルリー・エブド』編集部がまだそこにあり、自分がその関係者を襲ったと信じ込むなど、容疑者はいかにも間抜けだった。「イスラム国」(IS)やアルカイダで訓練を受けた形跡もうかがえなかった。未熟な過激派が起こした単発的な出来事に過ぎず、「一時沈静化したイスラム過激派の活動が再び活発になる予兆」とは考えにくかった。

 つまり、テロとしては完全に失敗なのだが、この事件は別の意味で、議論を招くことになった。容疑者は「付き添いなき未成年」(MNA)として保護を求めた人物だったからである。

 MNAは、大人に伴われないままたどりつく難民を指す用語で、通常は人道的措置の対象となる。ただ、近年はこの制度を逆手に取って、未成年の振りをする難民が急増し、問題になっていた。この容疑者も、18歳と主張しながら、実際はすでに25歳になっていたと、後に判明するのである。

 MNAは、フランスに限らず欧州各国にとっての課題である。これを機に考えてみたい。

年齢に疑念を抱かれた男

 ニコラ・アペール街は普段、人通りの乏しい街路である。9月25日午前、かつて『シャルリー・エブド』編集部があったビルに入居する映像配信会社『プルミエール・リーニュ』の社員男女が路上で休憩していたところ、男が刃物で突然襲ってきた。2人はけがを負ったが、命に別条はなかった。

 逃走した男は間もなく、近くで逮捕された。男は18歳のハッサン・アリと名乗ったことから、現地のメディアもそう報道した。

 なお、別の男性1人も同時に拘束されたが、これは容疑者を追いかけていたとわかり、逆に英雄扱いされた。

 ハッサン・アリは、しかし2018年8月にフランスに到着した時から、その年齢に疑念を抱かれた人物である。

 フランスで、難民が18歳未満か以上かは、決定的な分かれ目となる。18歳未満だとMNAとして保護を受け、生活も就学の機会も与えられる。18歳以上だと違法難民と見なされ、強制送還の対象となりかねない。ハッサン・アリはフランス到着時、16歳前後で、当然MNAと見なされるはずだった。彼は実際、パキスタン・パンジャブ州のマンディー・バハーウッディーンで2002年8月10日に生まれたとする出生証明書を、たどり着いたパリ北西ヴァル・ドワーズ県の担当官に提出した。

 しかし、彼はどう見ても16歳に見えなかったという。MNAかどうかの判断は政府でなく各県に委ねられており、県の担当官が面接したが、その1回目から怪しまれた。担当官は、地元の少年裁判所で年齢を確認する手続きを取った。

 年輪を持つ樹木とは異なり、人間は身体だけだと、年齢を特定するのが難しい。フランスはこのために、骨年齢を計測する手法を導入していたが、男女差や栄養状態による誤差が大きく、信頼度に乏しかった。ハッサン・アリに対しても、計測は結局なされなかったようである。

 MNAと認定される確率は県によってばらつきが大きく、低いところでは9%しかない。逆に高いところでは100%、つまり申請者全員がMNAと認められる状態である。ヴァル・ドワーズ県は最も審査が甘い県として有名で、そのために、多くの難民がここを目指して集まる始末だった。実際、数カ月後にハッサン・アリは「18歳未満」と裁定された。

 なおも疑念を払拭できない県の担当者は、上訴することにした。しかし、最終的な判断は結局、示されることがなかった。今年8月10日、アリは書類上18歳の成人を迎えてしまったからである。本当に未成年だったかどうかはうやむやになった。

 ハッサン・アリの正体が明らかになったのは、テロを起こした後だった。『リベラシオン』紙によると、彼の携帯に保存されていた真の出生証明書から、すでに25歳のザヘール・ハッサン・メフムードなる男だと判明したのである。

 ハッサン・アリ転じてメフムードは、2018年3月に故郷のパキスタンを出発した。農業を営んでいた親は、土地の一部を売って密航業者に渡航費用を払ったという。イラン、トルコを経てイタリアからシェンゲン域に入域し、タクシーと列車を乗り継いでフランスに入国した彼は、ヴァル・ドワーズ県に出頭したのだった。

 テロ当日の9月25日、彼は滞在許可証を申請するために県庁に出向く予定となっていた。『ルモンド』紙によると、彼は大工を目指し、すでに勤め先も決まっていたという。
 彼が過激化したとの情報を、当局は把握していなかった。ただ、事件前の今年6月、彼はパリ北駅でパキスタン系同士のいざこざを起こし、その際刃物を持っているとして当局の尋問を受けていた。また、信憑性は定かでないものの、彼が『シャルリー・エブド』を非難する動画も出回っているという。

「もはや無視できない」

 ハッサン・アリことメフムードは自ら未成年だと主張し、MNAとしての特権を利用しようとしていたことから、制度のあり方を問う声が事件後に噴出した。

 「偽の未成年移民ネットワークがこのテロリストを生み出した」

 国民議会(下院)の右派「共和派」の有力議員エリック・シオティは、状況をこう批判するツイートを発信した。警察官の組合もツイートで、

 「多数のMNAが引き起こす問題は、もはや無視できない」

 と述べ、注意を喚起した。

 MNAとはどんな制度か。どこに問題があるか。

 未成年の難民や亡命者は通常、親に伴われてやってくる。しかし、付き添いなしに独りぼっちで、あるいは未成年者だけで集まってたどり着くケースも、実は少なくない。それが「付き添いなき未成年」(MNA)である。

 MNAは、2016年に改称されるまで「孤立した外国人未成年」(MIE)と呼ばれていた。改称の背景には、保護の必要性を強調する意図があったという。

 MIE=MNAがフランスで目立ち始めたのは、地域紛争が激化した1990年代後半である。戦争で親を失ったり、貧困な地域から稼ぎ手と期待されて送り出されたり、人身売買ネットワークに乗せられたりした少年少女が、欧州にぽつぽつと姿を見せるようになった。

 彼らは、中東やアフリカ、アジアの故郷から独力でたどり着くわけではない。実際には大人が背後で支援しているのが、当時から明らかだった。手助けをするのは、仲介業者や犯罪組織の場合もあるが、子どもの保護をめざす人道救援団体がかかわるケースもあった。

 その手法は次の通りである。貧しい地域に救援団体が入り、子どもたちを集め、自らの付き添いでパリ行きの飛行機に乗せる。この時点で子どもらは、正規の旅券を保持している。しかし、パリの空港に到着すると、引率者は子どもたちから旅券を取り上げて、独りで入国してしまう。取り残された子どもたちは、旅券を持たないまま入国審査口に自ら出頭する。

 これは、子どもたちを救済する作戦なのだという。彼らがもし旅券を持っていると、出身国に送還されかねない。しかし、旅券がないと、フランスの当局者は子どもの証言だけをもとに送還するわけにもいかない。面倒を見ざるを得ないから、結果的に多くの貧しい子どもたちが救われる――。

 ゲリラ的だが、当時の援助団体は、使命感に駆られてこのような手法を使っていた。背景には、

 「未成年者には国を問わず保護を受ける権利がある」

 という理念があった。90年代から2000年代初頭にかけて、西欧各国の援助関係者の一部は、冷戦崩壊後の公正な世界を自ら築いていくのだと、強く意識しながら行動していた。

 筆者は2003年、このような未成年者の受け入れ施設を訪ねたことがある。パリ南郊クレムラン・ビセートルの団地の一角に市民団体「世界の子どもと人権」(EMDH)が設けた空間だった。ボランティア家庭や児童施設に引き取られて暮らす30人前後のMIEが毎日通い、弁護士や教師から歴史や数学の授業を受ける。情報技術や芸術の講座などでフランス語と社会の規律も学ぶ。受け入れは1年間で317人に及んだ。

 そのとき会話を交わした17歳の少年は、パキスタンから来たばかりだった。

 「学校に行きたかった。パリに来れば勉強ができると思った」

 と話した。施設の責任者は、

 「確かに出身を偽る子どもが多いが、うその積み重ねは心理的な負担となり、社会への適応を妨げる。スタッフが一人ひとりの事情を理解し、本当のことを話すよう手助けする必要がある」

 と説明した。

「子ども」か「難民」か

 ただ、以後の20年近くで状況は大きく変化した。

 1999年、フランスが受け入れたMIEは609人だった。その後、特に2015年の難民危機を境に急増し、2019年にMNAの資格を求めてフランスに入国したのは、実に4万人に達した。各県で審査を受けるが、未成年と裁定されたのはそのうちの3割程度にとどまった。

 入国者の出身国はギニア、マリ、コートジボワールの西アフリカ3カ国で61%に達し、伝統的にフランスへの移民が多い北アフリカのマグレブ諸国は1割程度に過ぎない。メフムードのようなパキスタン出身者は少数派である。

 『リベラシオン』紙は10月6日、この問題で4ページの特集を組んだ。その中で、ミステールという名の少年の軌跡を追っている。2003年9月生まれと語るミステールは今年2月、故郷ギニアを出発し、マリ、モーリタニア、モロッコと西アフリカを縦断してスペインに渡った。その後、商品袋に隠れてパリに到着した。情報技術を学ぶのが夢だという。

 フランスでの居住を認められた未成年の中には、学業に取り組み、優秀な成績を修める人も少なくない。バカロレア(大学入学資格試験)で高評価を得て、パリ政治学院に進学したケースもあるという。

 もっとも、そうでないケースも目立つ。未成年としての保護を経た後、職に就けなかったり、犯罪組織にかかわったりの例が報告されている。

 仏南西部ボルドーで今年8月、この問題が大きく報じられた。MNAとして入国した数十人から100人に及ぶ若者たちが徒党を組み、抗争を繰り広げている、というのである。7月にはこれらのグループ間で報復の繰り返しとなり、けが人が出た。麻薬取引を巡って、街の中心部で白昼衝突したこともあるという。

 地元の統計では、今年の前半6カ月間に容疑者が判明した犯罪の44%がMNAによって引き起こされていた。年々武装化を強める傾向もうかがえる。警戒心が強く、仲間内で固まる傾向が見られ、地域社会とはあまり交流しないという。

 フランス以外の欧州諸国も、同様の問題を抱えているとみられる。ただ、国によって定義が異なり、全体像を把握するのは難しい。

 MIE=MNAを「子ども」として保護や福祉の対象ととらえるか、「難民」として管理や規制の対象とするか、対応は難しい。ただ、この20年の間、欧州側の受け止め方も変わったのは否定しがたい。こうした問題を考えるうえでのキーワードは、かつての「人権」から「治安」へとシフトした。それだけ、欧州が余裕を失ったともいえる。

 旧『シャルリー・エブド』の建物前で起きた失敗テロは、このような欧州社会の警戒感を、さらに強めることになったのである。
 

国末憲人
1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員、GLOBE編集長を経て、現在は朝日新聞ヨーロッパ総局長。著書に『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)など多数。新著に『テロリストの誕生 イスラム過激派テロの虚像と実像』(草思社)がある。

Foresight 2020年10月14日掲載

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