結成50年「細野晴臣」が回想する「大瀧詠一」と「はっぴいえんど」(篠原 章)
はっぴいえんど人脈
篠原 はっぴいえんどは、今や「伝説のバンド」となっています。はっぴいえんどを中心とした「人脈図」を描いてみると、松任谷由実さん、小坂忠さん、あがた森魚さん、鈴木慶一さん、矢野顕子さん、吉田美奈子さん、山下達郎さん、大貫妙子さん、南佳孝さんなどといったアーティストはすべて「はっぴいえんど」につながっています。こうした豊かな系譜は、ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターなどを経て、星野源さんなど現代のアーティストにまで及んでいます。はっぴいえんどには、こうした分厚い「遺産」がありますが、細野さんご自身は、はっぴいえんどの残した影響について、現在どのような思いを抱いていらっしゃいますか?
細野 はっぴいえんどが縁をつくったのではなく、縁が全てをつなげていったと思う。その縁は文化や伝統の流れに潜む磁力であり、音楽好きのために用意された特典と言ってもいい。自分は忘れっぽい性質で、はっぴいえんどの数年を放り出して進んでいったが、その後数十年もたってはっぴいえんどが自分を追いかけてきた。記録とはおそろしい。やったことは消すことができない。ある時、ムッシュかまやつ(かまやつひろし)さんから「自分のやってきたことをもっと大事に」と言われたことがあり、いまはつくづく納得している。
篠原 ありがとうございました。(2020年7月)
初めて細野晴臣と話したのは49年前、1971年8月8日のことだ。中学2年生だった筆者は、両親の反対を押し切って、日本の野外音楽フェスの嚆矢(こうし)である第3回全日本フォークジャンボリー(会場・岐阜県恵那郡坂下町―現在の中津川市)にテント持参で出かけ、出演者だったはっぴいえんどの「細野さん」を見つけてサインをねだった。79年から80年にかけて、細野が講師を務める音楽講座に参加したことが縁で、YMOを結成してまもない細野の音楽に対する姿勢や活動の様子をつぶさに観ることができた。細野の「時代(の音楽)」に対するアンテナ、感応性は誰よりも鋭かったが、本当の目的は「自分にとって心地よい音楽とは何か」という「アイデンティティ」の探求だったと思う。大上段に構えて言えば、「世界音楽における自分の音楽の位置づけ」を求める姿勢だったのではないか。
他方、はっぴいえんど解散後の70年代後半には、大瀧詠一のラジオ番組への投稿がきっかけで、筆者は、ポップスに関して大瀧から直接教えを乞う機会にも恵まれた。大瀧は、音楽の新しいスタイルを求める仕事は細野に任せ、土台となる音楽を再構成、再評価する仕事は自分が引き受ける、というスタンスだったが、これもまた「アイデンティティ」の追求だったと思う。
大瀧という同志を失った細野の喪失感は大きいだろうが、松本も鈴木も現役だ。いまさらはっぴいえんどでもないが、されどはっぴいえんどである。細野が吐露した通り、いまも、またこれからも、「はっぴいえんどが追いかけてくる」のかもしれない。
評論家 篠原 章
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