名画は語る! 王と女王の英国史

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 日本人にも熱狂的なファンが多く、21世紀に入ってもなお衰えることのない英国王室人気。そして彼らのご先祖さまたちたるや、チャールズ&ダイアナ、ヘンリー&メーガンも目じゃない強烈キャラ揃い!

 『芸術新潮』10月号では、「特集 名画は語る! 王と女王の英国史」で、英国王室1000年の歩みを、王・女王を描いた名画の数々でたどっています。

 ちなみに、現在のイギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合国」。連合しているのは主島ブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズ、お隣アイルランド島のうちプロテスタントの住民が多い北アイルランドです。

 また、この特集でいう「王と王女」は11世紀のウィリアム1世から現在のエリザベス2世までの41人。そのうち23人目のエリザベス1世まではイングランドの王であって、スコットランドには別の王家がありました(その後、王家は1つになる)。ウェールズ、アイルランドには王家は成立せず、ある時期からイングランドの支配下に入っています。

 さて、“カリスマクィーン“から“だめんず”まで、残された肖像画とともに、君塚直隆・関東学院大学国際文化学部教授の解説で、英国王のお顔拝見といきましょう!

※本文は『芸術新潮』10月号の特集より抜粋していますので、取り上げられている絵画は本誌にて確認できます。特集ではこのほかに首斬り王、少年王、幻の少女王、外国人の王などなど、英国史を彩った凡人・軍人・変人・女人11人の人となりをたっぷり紹介しています!また、ここで掲載されている絵画は、「ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵 KING&QUEEN展」(詳細は文末)で直にご覧いただけます。

偉大なる愛され女王の時代

エリザベス1世(在位1558~1603年)/ヴィクトリア女王(在位1837~1901年)

Q. イギリスは女王の時代に繁栄したというイメージがあります。

君塚 16世紀のエリザベス1世がスペインの無敵艦隊(アルマダ)を破って海洋帝国の礎を築き、19世紀のヴィクトリア女王は世界の陸地の4分の1を占める「太陽の沈まない帝国」を支配した――そんなふうに言われます。しかし、ヴィクトリア朝についてはその通りとして、エリザベス朝のイングランドは実はフランスやスペインに遠く及ばない弱小国だったんですよ。

Q. エリザベスの肖像画は、我こそは世界の女王なり、みたいな迫力ですけれど?

君塚 25歳の《エリザベス1世(戴冠式の肖像画)》(作者不詳)は別にして、50代以降に制作された《エリザベス1世(アルマダの肖像画)》(作者不詳)、マルクス・ヘーラールツ(子)の《エリザベス1世(ディッチリーの肖像画)》、アイザック・オリヴァーの《女王エリザベス1世(虹の肖像画)》などは、かなり意識的なイメージ戦略の産物でした。大きな赤毛の鬘を被り、絢爛豪華なドレスを纏い、顔に白粉を厚く塗りたくった姿は、永遠に年を取らない「栄光の女性(グロリアーナ)」としての自己演出に他なりません。

Q. 現実の老いゆく身体をイメージの中で超越し、求心力を高めようとしたのでしょうか?

君塚 エリザベス1世のニックネームとして「処女女王(ヴァージン・クイーン)」がよく知られていますが、ヴァージン・クイーンにせよグロリアーナにせよ、エリザベスが生涯結婚しなかったからこその呼び名です。彼女が独身を貫いたのは、身近な2つの事例を見て、女性君主の結婚の難しさを痛感したからでした。

Q. 姉のメアリー1世と、スコットランド女王メアリー・ステュアートですね?

君塚 メアリー1世は、生母がカトリックの牙城スペインの王女だったこともあって熱心なカトリックでした。プロテスタントの国教会を廃してカトリックへの復帰を図り、その過程で大量の処刑者を出したことが、カクテル名にもなっている「血まみれメアリー(ブラッディー・メアリー)」というあだ名の由来です。
 そのメアリーが即位の翌年に結婚したのは、スペイン王太子フェリペ(後の国王フェリペ2世)。彼は結婚後の1年程をイングランドで暮らし、メアリーの共同統治者として国政にも関わります。結局、子供はできませんでしたが、もし生まれていたらどうなっていたか。当時のスペインは、新大陸から太平洋のフィリピン(フェリペの名にちなんだ命名です)まで支配する欧州の最強国。現にナポリやポルトガルがそうだったように、イングランドもスペインの属国にされた可能性が高い。それを免れた(そしてエリザベスが女王になれた)のは、メアリー1世が結婚の時点ですでに38歳と高齢出産の年齢に達しており、在位5年で没したお蔭でした。

Q. メアリー・ステュアートは、エリザベスに処刑されています。

君塚 父王の急逝で生後6日にしてスコットランド女王になったメアリーは、5歳からは母の出身国のフランスで暮らし、王太子と結婚します。王太子はフランソワ2世として即位したものの、子のないまますぐに死別して18歳で母国に戻ります。が、フランス宮廷育ちのメアリーがカトリックだったのに対して、スコットランドではプロテスタントの長老派が多数派になっていました。メアリーは、この宗教対立と自身の結婚の問題(再婚相手の不審死とスキャンダラスな再々婚)から廃位され、イングランドに亡命。ヘンリー7世の曾孫としてイングランドの王位継承権を持つところから、カトリックの貴族たちと共謀して、エリザベス暗殺の陰謀を繰り返すようになります。

Q. みずから悲劇を招いた感じ?

君塚 ふたりのメアリーを反面教師に独身を貫いたエリザベスは、一方で諸王家との結婚話を利用してもいます。縁談が進んでいる限り、攻撃されないわけですから。年齢的にその手が使えなくなると、こんどは宗教を利用しました。フランスやネーデルラントのプロテスタント陣営に密かに資金援助してフランス王やスペイン王と戦わせることで、彼らの野心がイングランドに向かわないよう仕向けたのです。こうした努力の甲斐あって、エリザベスはイングランドの独立を守りながら治世を全うすることができました。

Q. ヴィクトリアの女王即位もエリザベスと同様、幸運の賜物だった?

君塚 ジョージ3世の四男ケント公の娘に過ぎませんからね。しかし、父の長兄ジョージ4世(後述「酒と恋の大英帝国」参照)の娘シャーロットが早世し、他の伯父たちにも嫡子がなく、ヴィクトリアに女王の座が回ってきました(父ケント公はヴィクトリアが赤ん坊だったうちに死去)。
 《ヴィクトリア女王の最初の枢密顧問会議》は、先代ウィリアム4世崩御の当日に開催された会議のさま。首相のメルバーン卿をはじめとするお歴々を相手に、18歳の新女王はすでにして威厳たっぷりです。制作は風俗画の名手デイヴィッド・ウィルキーですが、これは決して画家の理想化などではなく、当日の出席者の1人だったワーテルローの英雄ウェリントン公爵も女王の態度が立派であったことを証言しています。

Q. ヴィクトリアはエリザベスと違って結婚し、子宝にも恵まれていますね。

君塚 イギリスはもはやかつての弱小イングランドではなく、押しも押されもせぬ大英帝国。結婚を通じて国を乗っ取られる心配をする必要はありません。ヴィクトリアが王配に選んだのは、ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公の子息で、母方のいとこにあたるアルバート(1819~61/ドイツ語名はアルベルト)。華燭の典は1840年に執り行われました。20歳の同い年でした。夫婦仲はたいへん良く、最終的には4男5女を儲けています。
 「ドイツ人の旦那」ということで当初は嫌われていたアルバート公ですが、直に接するエリート層にはその優秀さが認識されていましたし、1851年の第1回ロンドン万博を総裁として大成功させたことで一般の人気も高まりました。また、《1846年の女王ご一家》(アルフォンス・レオン・ノエル画)のようなロイヤルファミリーを描いた絵画が複製で広く流布し、中産階級的な家庭の理想像となってゆきます。ドイツの風俗だったクリスマスツリーが、世界的に広まったのもこの夫妻の家庭習慣からでした。

Q. アットホームですね。従来の王族とは違った感じがします。

君塚 ところが1861年、そのアルバート公が42歳で急死します。これは女王にとって大きな挫折で、以来、終生喪服を着たままでした。また、ロンドンの社交界はもちろん議会開会式にさえ現れず、スコットランドやワイト島の離宮に隠遁してしまいます。
 エドウィン・ランシアの《オズボーンのヴィクトリア女王》はその時期のひとこまです。公文書を入れる赤い箱が描かれているように、女王は黙々と書類仕事をこなしてはいました。しかし、世間はそうは思いません。仕事をしない女王なんか要らない、共和制でいいんじゃないかという議論がかなり盛り上がる。この絵にも登場している馬丁のジョン・ブラウンを気に入ってどこにでもお供させたため、「ブラウン夫人」と諷する声もあがりました。この「共和制危機」は、1871年末、皇太子エドワードが腸チフスで一時、危篤に陥ったことを機にようやく沈静化しました。

Q. 王室と国民を危機が結びつけた?

君塚 ヴィクトリアは、そもそも統治に関わることにかなり積極的でした。特に外交の分野はそうで、植民地帝国の拡大と維持には誰よりも熱心。1876年にはインド皇帝に即位しますが、これも彼女が首相のディズレーリに強く要請して実現したことで、批判も多かったんですよ。
 外交におけるヴィクトリアの強みは、9人の子供たちが各国に縁付いて広範な婚姻ネットワークが形成され、内閣も持っていないような高度の情報を得られたこと。各国君主の周辺から、どんどん手紙が来るわけですからね。デンマークの画家ラウリツ・タクセンが、在位50周年を祝うため国内外から集まった親戚たちを描いた《1887年のヴィクトリア女王の一族》を見れば、その壮観さがわかるでしょう。1901年の女王の死はしかし、ヨーロッパ王室の良き時代の終わりの始まりでした。十数年後には、まさに彼女の孫や孫婿たち(英国王ジョージ5世、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世)の間で第1次世界大戦が勃発し、古いヨーロッパは崩壊してしまうのです。

酒と恋の大英帝国

ジョージ4世(在位1820~30年)/エドワード8世(在位1936年)

Q. このビヤ樽みたいな人物がジョージ4世ですか……?

君塚 まだ王太子ですが、その享楽的な暮らしぶりを揶揄した風刺画です。真面目一方だった父ジョージ3世とは対照的な性格で、庶民受けがきわめて悪かった。カトリックの未亡人と秘密結婚して取り消されたりもしています。

Q. お気に入りの画家トーマス・ローレンスに描かせた肖像画はさすがに堂々としてますね。

君塚 このときはすでに病気の父王に代わって摂政として執務にあたっていました。注目したいのは首元につけているハプスブルク家の金羊毛勲章。1813年から14年に、ジョージはロシア、プロイセン、オーストリアの3カ国の君主と勲章を贈り合っています。この頃、これらの国々は対ナポレオン戦争で結束しており、勲章の交換は同盟の証でした。オーストリアの金羊毛勲章の授与対象は本来、カトリックの男性に限定されていて、ジョージ4世は同勲章の600年の歴史の中で非カトリックに贈られた唯一の例です。

Q. ただの遊び人ではなかった?

君塚 少なくとも外交面では出不精だった父王よりすぐれていました。ヨーロッパ列強と積極的に交わり、同盟軍が1814年4月にナポレオンを退位に追い込んだ際には、その最大の功労者である英国の代表として大祝賀会を主催。大陸の王侯貴族や戦場の英雄たちがロンドンに集結する英国史上はじめての出来事となりました。
 翌年3月にナポレオンは配流先のエルバ島を脱出してパリへ帰還しますが、6月にワーテルローの戦いで敗れ、完全に失脚。中世の英仏百年戦争でフランスに敗北して以降、大陸諸国から身を守ることに汲々としてきたイギリスですが、ここに至るまでの第2次英仏百年戦争ともいえる戦いで最終的な勝利をおさめて、ヨーロッパ随一の大国となったのです。

Q. イギリスの勝利の要因は?

君塚 前章でも触れたように、柔軟な資金調達力が大きい。イギリスではいざ戦争で資金が必要となると、余裕のある地主貴族(ジェントルマン)階級が調達します。もともと彼らが持っている土地は、ノルマン・コンクェストで征服した土地を王が与えたもの。根っこに御恩と奉公の関係がある。また、国教会の長は国王ですから、教会も国のために資金を供与する。ところが大陸では諸侯の土地は王から与えられたものではないし、教会は教会で独立した存在。となると貧乏な平民から絞りとるしかなく、そこで不満がたまって市民革命へとつながる。対するイギリスではいわゆる市民革命は一度も起こっていません。

Q. なるほど。しかしジョージ4世の国内での嫌われようはすごいですね。

君塚 亡くなったとき、有力紙が「誰がこの王のために涙を流そうか!」と書いたくらい。そこまで嫌われた原因のひとつに王妃キャロラインとの離婚騒動があります。キャロラインはブラウンシュヴァイク公国の公女で2人は従兄妹同士でしたが、結婚当初から反りが合わなかった。外国人でしかも出しゃばりの王妃は宮廷内で評判が悪かったのですが、しかし国民からの人気は高かった。ジョージは即位するやただちに教会に離婚を求めるも拒絶され、なんと王妃の不義をでっち上げて議会に離婚法案を提出。さすがにヘンリー8世(6人の王妃と結婚離婚を繰り返し、うち2人を処刑した)の時代とは異なり、法案は庶民院で否決されたものの、こんどは戴冠式に出席しようと駆けつけた王妃を門前払い。その3週間後に彼女は腹膜炎であっけなく亡くなってしまうのです。

Q. 戴冠式後の晩餐会の様子がジョージ・ジョーンズの絵に残されていますが、盛大ですね。

君塚 参列者は国内外から総勢1583人。贅沢好きで美食家でしたから、費用は相当のものでした。ジョージ4世が不人気だったもうひとつの理由は、この桁外れな浪費癖。特にリージェント・ストリートや公園整備などのロンドンの都市改造、またウィンザー城やバッキンガム宮殿の改築に莫大な費用を投じます。

Q. しかしバッキンガム宮殿は、正直、ヴェルサイユ宮殿などと比較するとこじんまりしてませんか?

君塚 いかに費用をかけたといっても、英国王は絶対君主ではないですからね。議会の了承なしに予算は下りない。とはいえ、ジョージ4世の審美眼は確かでした。同じく芸術を愛したチャールズ1世より一歩進んでいるのは、自国の芸術家を育成しようとしたところ。ロイヤル・アカデミーの運営にも積極的に関わり、付属学校に王室所蔵の名画を無料で貸し出してスケッチさせたりといった支援を惜しまなかった。バッキンガム宮殿も当時批判はあったにせよ、後年、歴代君主の居城となり、21世紀のいまも王室の拠点かつ一大観光資源になっているわけですから、無駄だったとも言えませんよね。

Q. そのバッキンガム宮殿の中に佇むジョージ5世一家が描かれた《バッキンガム宮殿での国王一家》(ジョン・レイヴァリ画)という絵がありますが、ひとりそっぽを向いているのがこのパートのもうひとりの主人公、のちのエドワード8世。

君塚 この絵を見るだけでダメそうですよね。ジョージ5世は死の床で「あの坊やは私が死んだ後12カ月以内に身を破滅させることになるだろう」と話したと伝わりますが、その言葉どおり、エドワード8世は1936年1月に即位して、1年も経たずに王位を投げ捨てることになります。あとを継いだのは弟のジョージ6世。現在のエリザベス女王の父親です。

Q. 有名な「王冠を賭けた恋」ですね。

君塚 そんな美談めいた言い方をするのは日本だけですよ。即位時、エドワード8世は41歳。2歳年下の恋人、ウォリス・シンプソンはアメリカ生まれで離婚歴があり、その後イギリスで再婚していたので、2人は長らく不倫の関係にありました。国教会はもちろん、王室や議会内でも結婚には反対の声が多かった。即位後に2人の関係が表沙汰になるや国中が大騒ぎとなり、ボールドウィン首相から「王冠をとるか、ウォリスをとるか」と迫られる事態となったのです。周囲に甘やかされて育ち、少々怠け者で自分勝手なところがあったので、ついてくる人もいない。まともな側近がいれば、こんな馬鹿げた事件は起きませんよ。

Q. まるでいいところなし?

君塚 唯一よかったのは、おしゃれのセンスでしょうか。洋服にしろ車にしろ流行の最先端に敏感で、そういう人だから社交界の華にはなる。とはいえ退位後は誰からも相手にされなくなります。第1次世界大戦でヨーロッパの名だたる王朝が滅び、社交界の中心は完全にイギリス王室になっていましたから、下手に2人に関わってその機嫌を損ねるわけにはいかない。

Q. そんなに王室から嫌われていた?

君塚 何をしでかすかわかりませんでしたからね。退位後はウィンザー公爵の称号と年金を与えられて、望み通り結婚したウォリスとパリ郊外に暮らしていましたが、第2次世界大戦前夜にはヒトラーに利用価値を見いだされ、ベルリンでまるで王と王妃のように歓待されて大喜び。危険を察知した英国政府がカリブ海のバハマ諸島の総督にして体よく追いやり事なきを得ましたが、ちょっと危なかった。姪のエリザベス女王の戴冠式にも呼ばれませんでしたし、正式に帰国を許されたのは母親や妹の葬儀など数えるほどでした。

Q. うーん、哀れです。

君塚 そうですね。ただ、日本ではじめて英国王室フィーバーが起きたのは、このエドワードが皇太子時代の1922年に来日した時なんですよ。摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)とゴルフなんかしたりしてね。よほどいい思い出だったんでしょう、昭和天皇は1971年にヨーロッパを訪問した際、たっての希望でパリのウィンザー公のもとを訪れています。片や王位をみずから捨てた元国王、片や敗戦国でありながら国の象徴としてその地位を保たれた天皇。半世紀ぶりの再会に、2人の胸にはさまざまな思いが去来したことでしょう。その約半年後、ウィンザー公はひっそりと世を去りました。

ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー所蔵 KING&QUEEN展―名画で読み解く 英国王室物語―

会期:2021年1月11日(月・祝)まで

会場:東京・上野の森美術館

休館日:会期中無休

開館時間:10:00~17:00(金曜日は20:00まで、ただし、1月1日金曜日・祝日は除く。入館は閉館の30分前まで)

観覧料:平日、一般1800円、高校・大学生1600円、小学・中学生1000円 土日祝日、一般2000円、高校・大学生1800円、小学・中学生1200円

お問い合わせ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

※入場には入場前日の17時までに日時指定券の事前購入が必要。当日券は午前10時より会場のチケットボックスにて販売。なお、事前に公式HPまたは公式SNSで最新の運営情報をご確認の上お出かけください。

Foresight 2020年10月11日掲載

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