『素顔のヴィルトゥオーソ』第4回 ヴァイオリニスト堀米ゆず子

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 世界を舞台に活躍するヴァイオリニスト堀米ゆず子さんは、5歳からヴァイオリンを始め、1980年桐朋学園大学を卒業。同年、世界で最も難関と言われるコンクールの1つ「エリザベート王妃国際音楽コンクール」で、日本人初の優勝を飾って世界の注目を浴びた。

 今年は、そのコンクール優勝で世界の楽壇に羽ばたいてから40周年の節目を迎えた。

 だが今年、世界は新型コロナウイルスの感染拡大という未曽有の厳しい状況に置かれ、堀米さんをはじめ世界の音楽家は「演奏会を開けない」過酷な日々を強いられた。

 そんななか11月11日、楽壇生活40周年を記念したリサイタル『バッハとともに』がサントリーホールで開催されることになった。

 この40年、世界の一流オーケストラ、指揮者、巨匠らとの共演を重ね、数々の国際コンクールの審査員にも招かれ、若手音楽家の育成にも力を入れてきた堀米さん。

 本シリーズ第1回目(2018年4月5日)に登場した寺下真理子さんも、その教え子の1人だ。

 今回は、堀米さんの音楽観、世界観、そして巨匠たちとの知られざるエピソードを寺下さんがインタビュー。師弟関係だからこそ明かされる秘話の数々をお届けします。

腕試しのつもりだったコンクール

寺下真理子:最初に、先生のヴァイオリン、音楽との出会いからお聞きしたいのですが。

堀米ゆず子:そこから?(笑)。それを言うなら、もう生まれたときからですね。祖父は山形の人でしたが、昔、ヴァイオリンの代表曲『ツィゴイネルワイゼン』を作曲者のサラサーテ自らが演奏した音源がLPレコードで発売された際、どうしても欲しくてわざわざ横浜まで買いに来たというほどのクラシック好きだったそうです。そして父もヴァイオリンを弾いていたし、一緒に住んでいた従姉妹もヴァイオリンを弾いていた。彼女はN響(NHK交響楽団)の女性第1号の奏者です。

 だから、生まれたころ、物心ついたときには家でヴァイオリンの音色が響いていた。記憶している最初に聴いた音楽が、シベリウス(後期ロマン派を代表するフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト)とか、バルトーク(ハンガリーの作曲家、ピアニスト)の『子供のために』とか、モーツァルトの『アイネク』(代表曲の1つ『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』)とかでしたから。

寺下:もうはじめから準備されていたかのようですね。

堀米:言葉を覚えるよりも先に音楽が入ってきていた感じです。何の違和感もなく。だから、ピアノを練習して、ヴァイオリンを練習して、音楽教室へ行ってリトミックをやって、という毎日を物心ついたときから何の疑いも持たずに過ごしていました。

寺下:江藤俊哉先生に師事されたのはもっと後のことですよね。

堀米:最初は久保田良作先生で、江藤先生についたのは17歳からとかなり遅いのですが、でもそこからの5年間は非常に濃密な教えをいただきました。私の場合、リトミックやソルフェージュとか一般的な音楽の教養を身につけるのはとても早かったわけですが、反面、ヴァイオリンの音にそこまで集中できなかった感じもありました。そういう中で江藤先生に師事し、最初に「音に芯がない」って言われたの。だから、どういうふうにしたら音で表現できるのかを徹底的に教えていただいた。たとえば、ベートーベンの音というのは四角くて濃密だからこういうふうにすると音が出るとか、ブラームスだともう少し肉をつけたようなビブラートをしていくと表現できるとか、チャイコフスキーならそんなに濃密にはしないけれど、むしろこういうふうに表現するとかね。

寺下:あ、それは先生ご自身もよくレッスンで仰ってましたね。江藤先生のご指導がベースにあったのですね。

堀米:そう。あの先生に師事しなかったらいまここにはいませんね(笑)

寺下:先生は22歳のとき、日本人ではじめて「エリザベート王妃国際音楽コンクール」で優勝されましたが、それ以前に留学のご経験はなかったのですよね。

堀米:そう。私の周りの人はみんな留学していたから、私がコンクールに行くときは日本に誰もいなくて歓送会も何もなかったくらい(笑)。ちょうど桐朋学園大学を卒業するときで、肝試しのような感じで、自分の実力がどの程度なのか、どのくらいの位置にいるのかを試してみようと思って。だから、まったく怖さを感じなかった。少なくとも1次予選を通るまではね。それがその後は周りからも期待されるし、2次では逆に「わあ、どうしよう」ってちょっと怖かった。

寺下:優勝されたことでその後の人生がガラリと変わったと思うのですが、後にベルギーという国を選ばれて、現在もお住みになっておられますね。どうしてベルギーを選ばれたのですか。

堀米:最終的にベルギーを選ぶまでには9年かかっています。優勝したのは1980年ですが、その時にお世話になったホストファミリーとはその後もずっと、今でもお付き合いがあり、そのお家の末娘みたいに可愛がっていただいていまして。優勝した後も、ベルギーに行けばいつでも泊めていただけたし、私のためにいつも屋根裏部屋を空けておいてくださっていて、そのうち隣の大きなお部屋も占領しちゃって、そのうち専用の台所までつくってくださって。

寺下:すごいですね。そこまでだと、もうほとんどご自宅みたいな感じ。

巨匠「ゼルキン」と「アルゲリッチ」

堀米:だけど、当時はやっぱりパリに憧れていたので、実際に住んでみました。それから、マネージャーがロンドンにいたのでロンドンにも。さらにその頃から「マールボロ音楽祭」(米ヴァーモント州マールボロで毎夏開催されていた若手演奏家教育のための国際的フェスティバル)にも参加していたので、そこで出会ったルドルフ・ゼルキン(20世紀を代表する偉大なピアニスト。マールボロ音楽祭の創設者の1人)に言われて、ニュー

ヨークに住んでいた時期もあります。もちろん、時々日本にも帰ってきて。当時は私、日本でカルテットもやっていましたから。だから、その頃は本当に1年で世界を6周くらいしている感じ。その意味では、私は最初に「エリザベート優勝」という最高のパスポートを手に入れたので、とても素晴らしいスタートを切れた。でも、1回でも(演奏が)駄目だともうその後はお呼びがかからなくなるので、常に真剣勝負の連続。太平洋の大海原に放り出されて泳げって言われているようなものでしたから、本当に大変でした。

寺下:そうやっていろいろな国に住み、素晴らしい経験を積まれてこられたのですね。

堀米:マールボロでゼルキンに出会えたことは、やっぱり江藤先生に次いでとても大きなことでした。

寺下:本当に! 私もゼルキンのCDをたくさん持っていますが、それこそ伝説の巨匠じゃないですか。

堀米:私が出会ったのがもう78歳くらいで晩年という感じでしたが、でもその時でも、モーツァルトのコンチェルトを勉強しておられたの。マールボロ音楽祭ではいつも最終日に私たち全員でオーケストラを組んで演奏するのですが、そのとき、ゼルキンがモーツァルトのコンチェルトを弾くことになっていて、それを新しく録音することにもなっていて、それであのお歳でも改めて勉強なさっていた。その際の写真は私のホームページにも載せていますが、本当にとても可愛がっていただきました。そのとき、ご自分で若い演奏家を育てる別荘のようなお家を持っていらして、そこに来ないかと誘っていただいて、その年の冬、クリスマスの頃に行ったの。それから毎日、一緒に弾きました。

寺下:もうそれはすごすぎる! あのゼルキンとですよね!

堀米:なにがすごいって、まさにあなたが仰ったとおり、あの巨匠ゼルキンの音がそのままそこで響いているわけ。それを私も一緒に弾くわけですよ。ベートーベンの4番と5番のソナタとブラームスの1番のソナタを弾いていたのだけど、練習なのに、もう完全に本番なの。あの音がするんだもの。マールボロの室内楽をやっているときもそうでしたが、本当に真面目に絶対に手を抜いたりしない。途中でやめることもなく、最後まで弾き終わるの。それはもうすばらしい経験をさせてもらった。

 そうして、12月なんてもう雪がしんしんと降り積もっていて、その練習が終わると奥さんのイレーヌさんが温かい手料理をつくって待っていてくださるから、3人でご飯食べて。本当に夢のような日々でした。

寺下:あのゼルキンとそんな濃密な経験されたヴァイオリニストって、日本人ではいないんじゃないですか。ほんとすごい。

堀米:それでね、ゼルキンがご自分で車を運転されて私を送ってくれたとき、ゼルキンが練習していたモーツァルトのコンチェルトを私が「タタリンパパラン~」とかリズムを声に出して歌っていたの。そのときは「うまいねえ」とか言われてそれで終わっていたのだけど、それから3カ月後、彼がコンサートでそのモーツァルトを弾くのを聴きにいったの。そうしたらそのテンポがちょっと速い気がして。すると、終演後に楽屋にご挨拶に行ったら、彼のほうから「ちょっと速かったでしょう?」って。「あのときより速かったでしょう?」ってニッコリ笑って仰ったのよ。私の歌ったテンポをちゃんと覚えておられたのね。

寺下:わあ。すごくチャーミングな方ですね。

堀米:でしょう。そうなの、すごくチャーミング。孤高のピアニストだけども、チャーミング。そのあと別の機会に、今度は私がコンサートでバッハの3番を弾いたときに聴きにきてくれて、あとで手紙をくださったの。「この興奮した経験のおかげで、僕の人生はとても楽しくなりました」って。ほんとにチャーミングで素敵な言葉でしょう。

寺下:ほんとうに素晴らしいご経験ですね。ゼルキン以外にも、忘れられない出会いがあったんじゃないですか。

堀米:マルタ・アルゲリッチとシューマンのソナタを弾いたときのことも忘れられない記憶です。一緒に練習しているとき、聴こえないんです、彼女の音が。とっても小さく弾くのよ。それで私、「何でこんな小さい音で?」って聞いたくらい。そうしたら彼女、こっちが何をどういうふうに弾くか聴いてるわけ。あのときのマルタとの経験で、私は「引く波」があることを学びました。若いときはやっぱり押すことばかりを考えて弾いてしまうの。でもね、「引く」という部分があってこその押しなのだということを学んだのは彼女からですね。

寺下:アルゲリッチも大ソリストですが、そんな彼女から「引く」という言葉が出るんですね。

堀米:彼女が大ソリストでいられるのは、むしろそれを知っているからでしょうね。私がどこで(音を)出してくるのか、出すべきところでどう出してくるのかをじっとうかがって、そこに合わせて自分は引いたりあるいはむしろ押してきたり、逆に自分が押すところでの私の反応をうかがいながら押したり引いたり。そういうことを知り尽くしているからこそ大ソリストたりえているのでしょうね。私にしてみれば、音楽の下にある流れのようなものは彼女と一緒だから、どんなことをやってもちゃんと幹のところに戻ってこられる。それがもうすばらしい快感でしたね。

寺下:やはりゼルキンとアルゲリッチは、先生にとってある意味お手本のような存在なのですね。

堀米:そう。生き方も含めて、ああいうふうにお歳を召してもずっと真摯に音楽に向き合って、常にいろいろなことを考えるという経験を一緒にさせてもらえたのは、ほんとうに貴重でした。

「個性的な」という表現は変

寺下:エリザベートで優勝された40年前の当時、アジア人で、女性で優勝して、そのあとで何か差別というか、大変な思いをされたことはなかったのでしょうか。

堀米:とくに差別とかはなかった。それ以前に、まずユズコホリゴメなんていってもどこの国の人なのか男か女かもわからないわけです。写真を見てはじめて、ああ女の子か、まあ東洋人みたいだな、というくらいの認識しかなかったので、差別までいかない。

 ただ、優勝したあと、ベルリンフィル(世界最高峰の1つと評されるオーケストラ「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」)の定期演奏会に招かれて弾くために練習に行ったとき、「オケの楽団員試験を受けに来たの?」って言われたことはあった(笑)

寺下:それはたぶん差別というより、その人の天然ボケ?(笑)

堀米:別のオケでは、「お茶くみの人ですか?」って言われた(笑)

寺下:えー! それはびっくり!

堀米:でもね、まだそういう時代だったのよ。ロッケンハウス(オーストリア東部で毎夏開催されている音楽祭「ロッケンハウス国際室内楽フェスティバル」)に行ったときは、やっぱり当時は東洋人を見たことがない人が多かったので、それこそこうやって頭のてっぺんからつま先までじーっと見られた。

寺下:やはり先生はタフなのですね。それであっても大変なことはいっぱいあったと思います。

堀米:いえ、タフではないですよ。とりわけ私には留学経験がなかったので言葉ができなくて、そのためにどれだけ惨めな思いになったか、弱気になったか、いろんな落とし穴に入ってしまったか、それはもう計り知れないものがありました。だから、渡り歩いていたというような感じではまったくなかったですね。それに、たとえば名声を得たいとか、たくさん音楽会を開いてお金持ちになりたいとか、何でもいいのですがそういう具体的な現世的な目指すものがあればよかったのでしょうが、私にはそれがなくて、とにかく音楽をきちっとやっていきたい、突き詰めたい、それだけだったの。だからそうすると、逆にいろんな迷いがいっぱい生じるわけですよ。ほんとうにこれでいいのだろうか、この勉強の仕方でいいのだろうか、こういう音を追及していく方向でいいのだろうかって……もう迷ってばっかり。

寺下:あれから40年経って、いまはどうですか。

堀米:いまはやっぱり、歳をとるといいことありますよね。

寺下:すてきです!

 私はもう10年以上先生の演奏を聴かせていただいていますが、昨年のシベリウスコンサート(2019年7月27日、横浜みなとみらいホールにて行われた『華麗なるコンチェルト・シリーズ【第11回】「雄大なる北欧3大協奏曲」』)が本当にすばらしくて、先生がさらにまた高い新たなフェーズに入っていかれたような感動を覚えたのです。何か心境の変化のようなものがあったのでしょうか。

堀米:変化という意味では、私は毎回、演奏ごとに違うことを考えて弾いています。だから、毎回、何か新しい発見を1つでもできれば御の字かなと思って弾いているの。スコア

から得られるもの、あるいは演奏中に気づくこととかね。スコアにはこれまでの自分の書き込みもいろいろあるのですが、昔の書き込みを見て、あのときは何を考えて、なぜこんな書き込みをしたんだろう、って考え込むこともある。そういうことの繰り返しですし、それでいいと思っています。そうやってまた新しい発見ができればね。だからやっぱり、音楽って新鮮というか、生きているの。だから毎回、フィンガリングも変えるし、ボーイングも変える。やっぱりそのときに弾くわけだから、そういうふうにいま感じていること、考えていることを生かして弾いていかないとね。

寺下:だからこそ、そのときの人生がすべて出ちゃうのでしょうね。

堀米:そう。だからこそ、ちゃんと生きるということはやっぱりとても大事なことなのです。

寺下:ですから、あの演奏を聴いていて、何か先生の人生が浮かび上がるような、重くて、深い音を感じて、これはもう若い演奏家がどう頑張っても出せない感動的な領域だなあと胸にじーんときたのです。やはり、先生にとって音楽って……。

堀米:もう人生そのものですね。私はそんなに練習はしないほうなのですが。

寺下:いやいや、そんなことはないですよ。

堀米:いや、しないの、ほんとうに(笑)。もうちょっとしたほうがいいのだけどね。でも、弾いていなくても、たとえば小説を読んでいても映画を観ていても、いつの間にか何か音楽に繋がることを感じたり考えたりするし、誰かとおしゃべりしているときでもね。

寺下:私、演奏家としてときどき、何か音楽を通して伝えたいということがありますかって聞かれることがあるのですが、実はいつも答に困っちゃうんです。先生はどうですか。

堀米:私はね、メッセージ云々はあまり自覚していません。もちろん、普段は演奏家同士、いろんな議論はしますよ。たとえば、私自身も音楽祭の審査員(各種国際コンクールのほか、2016年より「仙台国際音楽コンクール」でヴァイオリン部門の審査委員長)もしていますから、審査員同士、それぞれ第一線でやってきた人たちですから、そういう人たちと語り合う、議論し合うのはほんとうに楽しくて、いつの間にか夜が明けるというくらい。

 でも、私自身の演奏で私が一番やりたいのは、その音楽になりきることだっていつも言っています。私なんていなくなればいいの。その作曲家がその楽曲に込めたさまざまな思いが、私をとおして伝わればいいのです。

 だから、ときどき演奏家について使われる「個性的な」という表現は、非常に変な言葉だと思っています。私に言わせれば、個性的な演奏なんてありえない。楽譜に書かれていること、込められていることをどれだけ忠実に再現、表現できるかが大切なことで、そのために技術を磨かなければならないし、感性を研ぎ澄まさなければならないし、何よりちゃんとした人生を生きなければならないし、ちゃんと生きていなければできないのだと思うのです。自分の人生のなかでさまざま入ってくることをじっと見つめ続け、それを積み重ねて、真摯な誠実な態度で楽譜と向き合う。それを繰り返していけば、作曲家の思いが私の音から出てくるのだと思います。それがおのずと出てこないと本物ではない。私たちに与えられた手段は言葉ではなく、音ですからね。

「音を聴く」指導に力を入れる中国

寺下:先生はご自身の演奏活動以外にも、後進の教育に大変力を入れておられます。私も教えていただいた「ブリュッセル王立音楽院」、オランダの「マストリヒト音楽大学」で指導されているほか、マスタークラスも各国で開講されておられます。それこそ、世界各国の若い人を指導してこられているわけですが、その際、たとえばヨーロッパ人とかアジア人というくくりで何か違う教え方をされるとか、意識しておられることはありますか。

堀米:意図的に何かのくくりで変えることはありません。やはり、1人1人です。これは江藤先生から教えていただいたことですが、やはり「一対一でなければ教えられません」ということに尽きますね。国とか人種とかではなく、あくまでも1人。私もそうでしたが、基本的には師匠の言葉を弟子の方がなんとかして理解していくものですが、それにもそれなりの時間がかかりますし、教えるこちらのほうも、この子にはどういう言葉で伝えると芽が出るだろうかということを探りながら教えていくので、そのお互いの探り合いの時期も必要ですね。

寺下:教えるということは、先生にとってどういうことですか。

堀米:もう大変なこと。本当にエネルギーを吸い取られる。自分の演奏会のあとより、教えたあとのほうが一番くたびれます。私も自分の子どもを2人育てていますからどれだけ忍耐が必要かは経験していますが、教えるということは本当に大変。

寺下:では、音楽教育という面で、国や地域で違いはありますか。

堀米:私が最近感じているのは、たとえばヨーロッパの音楽教育のシステムがあまり振るわない。何というか、レベルが均一化されているという感じ。たとえばヴァイオリンならヴァイオリンをものすごく弾けるからほかの勉強はしなくてもよい、ということが通用しなくなってしまっている。つまり、押しなべてしまったために、いいタレントが伸びにくく、突出した才能が出にくくなっちゃった。だから、ちっとも面白い子が出てこない。プライベートスクールも、何かマネジメント化してきていて、先生が教えるというより、ある程度弾けて国際コンクールも取れて、そこがオーガナイズするコンサートを開いて、それでよし、という感じに使われているケースが増えて、ちょっと嘆かわしい感じです。

寺下:それは意外な感じです。

堀米:あとアメリカもちょっと問題。最近、国際コンクールの優勝者ってオリエンタルの人が多いけれど、だいたいジュリアード(音楽院)とかボストン(音楽院)とかカーティス(音楽大学)を出ている。でもそういうところで学べているオリエンタルって基礎ができていて、なおかつ裕福でないと入れない。あとはすでに技術的にハイレベルでスカラシップ(奨学金)がとれるか。でも、ジュリアードの先生いわく、ボストンは資金的に苦しく、ジュリアードは政治的になったからダメですって。ではどの国がいいかと聞くと、いちばん「音を聴く」という指導をしているのは中国だそうです。実際、私が審査委員長を務めている仙台国際音楽コンクールで前回、12歳の中国の女の子が上がってきました。150人から選ばれる36人の中にね。残念ながら予選で落ちちゃいましたが、12歳でバルトークのコンチェルトを弾きこなすのだから大したものです。

寺下:やっぱり、いまアジア人のレベルがかなり上がっている感じがしますね。

堀米:中国の音楽教育について言えば、ちょうど日本の1960年代、70年代の社会全体のように、あらゆるものを貪欲に吸収しようという姿勢があるみたいですね。私も知りませんでしたが、ジュリアードの先生の話や、仙台のコンクールで私自身もジャッジしてみて、ああなるほどなあと思いました。私が指導している子どもたちの中にも2、3人、中国の子がいますが、それなりにちゃんと弾けますからね。

寺下:それはほんと、はじめてお聞きする話でした。

 あと最後に、楽器のお話。現在先生がお持ちなのはグァルネリ(ヨゼフ・グァルネリ・デル・ジェス=1741年製)ですが、これはもう長くお持ちですよね。

堀米:1987年くらいからですから、もう長いですね。

寺下:それはエリザベートで優勝されたあと、ご自身で購入されたもの?

堀米:その前にストラド(ストラディバリウス)を持っていたのですが、それに加えて妹の楽器も取り上げて(笑)、それらを売ってさらに借金してとかね。いろいろやってまだ何とかなる金額と時代だったですから。もちろん、家族の協力があったからこそですが。

寺下:でも、そこもまた相当なご苦労をされたわけですね。そこまでして出会われて、いまも長く持ち続けているのは、やはりこのグァルネリに相当な魅力を感じたからだと思いますが、もちろん音色が大きいのでしょうけれど、それ以外のポイントは何ですか?

堀米:私は、後ろ姿にほれたんです。もうね、ほんとうにこのバック、後ろ姿に一目ぼれしたの。でもね、実はこの楽器、ほんとうに難しいのよ。

寺下:オールドの楽器は難しいですよね。

堀米:そう。その中でもこれはとくに難しい。

寺下:お値段のことは、あえてお聞きしないでおきますね(笑)。今日はいろいろとお聞かせいただいてありがとうございました。

【コンサートのお知らせ】

♪堀米ゆずこさん:楽壇生活40周年「バッハとともに」

11月11日(水)サントリーホール(詳細はこちら

♪寺下真理子さん:本と音の日曜日「朗読と音楽の物語」

10月25日(日)白寿ホール(詳細はこちら

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Foresight 2020年10月11日掲載

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