「クイズ番組のヤラセ問題」がケネディ大統領を生んだ 【米大統領選狂騒史】

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 2020年のアメリカ大統領選、トランプ対バイデンのテレビ討論は「史上最悪」と酷評される内容となった。相手が喋っている間に野次やツッコミが入るというのは、日本の国会や「朝まで生テレビ!」では通常の光景だが、世界一の大国のトップ候補同士の討論としてはふさわしくないということだろう。

 アメリカ大統領選挙でテレビ討論会が大きな役割を果たすことはよく知られている。そしてテレビの影響力の恩恵を最初に受けたのは、かのジョン・F・ケネディ大統領である。

 若くてさっそうとした彼のルックスに、多くの有権者が惹きつけられたのだ。1960年の選挙戦は、電波を通して全国に伝えられた「見た目」が大きく影響した最初の選挙と言えるだろう。いわばケネディは最初のテレビ大統領と言える存在なのだ。

 この「テレビ大統領」が生まれたきっかけには、テレビのクイズ番組の「ヤラセ」が関係していた。本来、政治とは関係のないスキャンダルが大きく影響していたのである。

 当時のドラマを『中傷と陰謀―アメリカ大統領選狂騒史―』(有馬哲夫・著)をもとに見てみよう(以下は同書第3章の要約)。

伝説のテレビ討論

 1960年9月26日シカゴのWBBMテレビスタジオで、アメリカ大統領選挙史上初のテレビ討論が実現した。合計4回を予定していたテレビ討論会の初回のこの日、共和党候補者のリチャード・ニクソンは直前まで続けていた地方遊説でやつれ果て、剃り残したひげのあとが目立つ姿でスタジオに現われた。

 彼の参謀たちは猛烈にテレビ・キャンペーンを繰り広げていたが、ニクソン自身は全国遊説を重視し、アメリカ全土を飛び回っていたのだ。当時のテレビカメラは感度が悪く、出演者に強烈なライトを浴びせた。ニクソンの無残な様子はこのライトによっても引きたてられた。

 これに対し、民主党のジョン・F・ケネディは若々しく、ハンサムで、強いライトのもとでもクールに立ち振る舞っていた。いかにも素人臭かったが、それがまた清新なイメージにつながった。

 議論そのものは明らかに副大統領を2期務め、大統領職の実務に明るいニクソンの勝ちだった。事実、ラジオを聞いていた人々もそう思った。

 ところが、テレビを見ていた人々は、ケネディが勝ったと判定した。テレビの視聴者には、議論よりもテレビに映った姿や話すときの物腰が印象に残ったのだ。ニクソンは、言葉こそ熱がこもっていたが、その姿は精彩を欠いていた。その後、彼はミルクセーキを何杯も飲んで急遽(きゅうきょ)体重を増やし、2回目以降はワイシャツの襟がスカスカに見えないようにしてテレビ討論に臨んだ。

 ニクソンの誤算は、初回の視聴者が最も多かったということだ。彼はこのテレビ討論が回を追う毎に大きな話題となり、視聴者もそれにつれて増えると思っていた。だから、彼は最後の4回目に最も得意とする外交を取り上げるように画策していた。

 実際には、初回がもっとも人目につき、最終回はあまり印象に残らない結果になった。討論会全体でも、視聴者に最も強い印象を与えたのは、立て板に水で外交を語る姿ではなく、やつれて不精ひげが目立つ無様な姿だった。初回のニクソンのマイナスイメージが最後まで尾を引き、全体的にもケネディの勝利という印象が強かった。

 当時、すでにテレビはラジオに代わってメディアの主役になっていた。したがって、テレビでこの討論会を見た人々の方が、ラジオで聞いた人々よりも多かった。テレビでこの討論会を見てケネディが勝ったと思った人々のほうが、ラジオを聞いてニクソンが勝ったと思った人々より多かったことになる。

クイズ番組のスキャンダルがニクソンの選挙戦略を変えた

 ニクソンはただでさえルックスで負けていたのだが、それに加えて、そもそもテレビを選挙戦に使うことに消極的だった。選挙参謀はテレビ・キャンペーンを進言したのだが、彼は実際に遊説に出かける計画にこだわった。そこに理由がないわけではない。

 実は当時、テレビは大変なスキャンダルを引き起こして、アメリカ国民の信頼をすっかり失っていたのだ。きっかけは人気クイズ番組の不正である。人気の高い解答者を勝ち残らせるために、事前に答を教えるという操作をしていたことが発覚したのだ。しかも同様のことを他のクイズ番組も行っていた。このスキャンダルはのちに「クイズ・ショウ」という映画にもなっている。

 1960年の大統領選挙はこのスキャンダルから1年もたたない頃だった。それ以前から、広告業界や放送業界の連中がテレビを使って大統領選挙で大衆操作を行い、しかもそれによって巨額の利益を得ているという非難がわき起こっていた。

 ニクソンはこんなときに派手なテレビ・キャンペーンを行えばどうなるかを考えた。共和党候補である彼と広告業界、放送業界とのコネが指摘され、イメージは悪くなるだろう、というのが彼の考えだった。

「若くてハンサム」が長所になるテレビ時代の政治

 一方、ケネディはテレビを使うことにまったく躊躇がなかった。父親が映画会社を所有していたこともあり、芸能界ともつながりがあったため、彼にとってはテレビも知らない世界ではなかった。

 また、彼はほとんど無名で政治的経歴もない上院議員で、テレビでもなければ有権者にとても売り込むことができない候補者だった。しかも富豪の父のおかげで多額の資金を必要とするテレビ選挙を行うことができた。また、そういう選挙が好きだった。

 下院議員の頃から彼は選挙区回りが好きではなく、むしろ運動員やテレビを使ったキャンペーンを好んでいた。上院議員になってもそれはさほど変わらなかった。同僚議員との付き合いや友好関係の構築に熱心とはいえず、そうした積み重ねで上を目指すよりも、てっとり早く副大統領候補になり、大統領候補になりたかったのだ。

 前大統領で民主党の長老になっていたハリー・トルーマンは「余りにも若く、急ぎすぎている」とケネディのことを言っていた。

 従来は、このような「若くて、急ぎすぎる」野心家は相手にされないはずだった。しかしながらテレビ時代になってからは、党内の基盤云々よりも、テレビ・コマーシャルなどで有権者に働きかけて人気を得た者が、党大会でも大統領候補者の指名を得られるようになっていた。テレビのおかけで、ケネディのような政治家が大統領候補者を目指せるようになっていた。

 若くてハンサムだという彼の特徴は、前の時代ではたいした長所とはいえなかったが、テレビ時代では明らかに大きな長所だった。

テレビ討論はテレビ選挙の最終兵器となった

 一方、テレビ業界のほうは、クイズショー・スキャンダルで地に落ちた評判を回復しようと必死だった。そこで大統領選挙で何か国民に役立つことをして罪滅ぼしをしようとした。

 それがテレビ討論だった。

 つまりニクソンとケネディのテレビ討論は、スキャンダルの副産物だったことになる。

 ニクソン陣営は、知名度や実績において明らかにケネディを上回っているので、対等に討論することに当初乗り気ではなかった。しかし、テレビ業界が熱心に求めるし、「ケネディのような無名の候補者に負けるはずはない」と考えたので、応じてしまう。

 それによって思わぬ深手を負うことになってしまったのだ。

 これ以後、テレビ討論はテレビ選挙の最終兵器となった。いかに世論調査で負けていても、討論の出来次第で逆転が可能になったのだ。

 テレビ時代では、政治家がどのような人間か、何をするかではなく、テレビでどのように見えるか、あるいはどのように見せるかが重要になった。

 この流れは現在に至るまで変わっていない。

デイリー新潮編集部

2020年10月8日掲載

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