テレビと本、一番の違いは「つなぐ力」?(古市憲寿)

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 新潮新書から『絶対に挫折しない日本史』という新刊を出版した。

 できるだけ専門用語を使わず「こんなふうに整理したら、日本史は一気にわかりやすくなります」という提案をした本だ。自分で言うのも何だが「おもしろくて、ためになる」一冊だと思う。

 日本史関連書籍の多くは読みづらい。特に最悪なのが教科書だ。人名や地名などやたら固有名詞が出てくるのに、大したヤマやオチもない。膨大な人物が一瞬だけ現れては消えていくという意味で、つまらない小説のようだとも思う。僕も人並みに歴史は好きなのだが、教科書だけは読み通せたためしがない。

 そこで『絶対に挫折しない日本史』は、とにかく「流れ」がわかる本にしようと思った。

 僕たちは東京スカイツリーに登った時、一つ一つの道の名前など知らなくても「東京」を一望できる。同じように、展望台から街を見下ろすような感覚で、「日本」の全貌を把握できる内容を目指した。

 タイトルを決める際、編集部内で一波乱あったらしい。「挫折」という漢字が難しすぎるのではないかというのだ。日本史どころか、勉強そのものに苦手意識を持つ人にも読んで欲しいのに、まずタイトルで「挫折」してしまう人が続出するのではないか。

 タイトルにルビを振る、ザセツとカタカナにするなどの案も検討されたが、結局は読者を信じることになった(と書くといい話だが、読者を「挫折」が読める人に限定したとも言える)。

 本を誰のために書くか。格好いいと思う答えは「大事なたった一人に向けて書きました」。実際、極めて個人的な作品が普遍性を持つことは大いにあり得る。世界中に似たような神話が残されていることからもわかるように、人類が好きな物語や設定のパターンは限られているのだろう。

 しかし僕自身、特定の誰かの顔を思い浮かべて本を書いたことはない。そのあたりが作家向きではないのかもしれないが、「誰か」がわかっているなら、本人に会いに行って、直接話してしまうことが多いから。わざわざ本にする必要がないのだ。もっとも「背中にも贅肉の段差ができるくらい肥えた身体」など、描写で実在の人物をモデルにすることはある。

 むしろ特定の「誰か」を思い浮かべることができないから、こうして文章を書いているのかもしれない。不思議なもので、誰のために書いたわけでもない本が、熱心な読者に出会い、その人の気持ちを変えることもあるようだ。それだけ文章のつながりというのは深いのだろう。

 テレビのつながりは、街で一瞬だけすれ違うことと似ている。確かにその時は同じ空間にいたはずなのに、歩き出すとお互いすぐに顔も忘れてしまう。

 だけど数時間をかけて読んだ本の記憶はなかなか消えない。一生覚えている場合もある。それくらい、本は人と人を深くつなぐ。「挫折」が読める人は是非、新刊をぱらぱらとめくって欲しい。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

2020年10月8日号掲載

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