ディズニーがフェミニズムの物語に変えた「美女と野獣」

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 東京ディズニーランドが9月25日、映画「美女と野獣」をテーマにした新エリアを公開した。「美女と野獣」はアニメ版、実写版ともに大ヒットしただけに、ファンにとっては馴染み深い物語である。

 が、その原作は?と聞かれると未読の方も多いのではないだろうか。

 原作となったのはルプランス・ド・ボーモン夫人の「美女と野獣」。ボーモン夫人は、18世紀に活躍したフランスの童話作家である。

 多くのディズニー作品同様、ディズニーはこの原作を大胆にアレンジして、現代の観客にアピールする魅力的な作品を生み出した。ではどこが原作と異なるのか。『ディズニーの魔法』(有馬哲夫・著)の解説をもとに、アニメ版との違いを見てみよう(以下、引用は同書より。ただし「美女と野獣」は、秋山和夫訳『美女と野獣』〈筑摩書房〉による)。

父親の「人でなし」っぷりでは原作の圧勝

 有馬氏の分析によれば、原作から離れたキャラクターを設定して、フェミニズム的要素を取り入れた点がディズニーの最大の手腕だという。

 フェミニズム云々は後で触れることとして、まず大きな違いは「野獣」の恐ろしさが挙げられる。ディズニー版ではライオンのような野獣は当初、かなり恐ろし気に現れる。

 原作でも「恐ろしい野獣」とされてはいるものの、振る舞いは意外なほど最初から紳士的だった。

 彼は森で迷って行き倒れ寸前になっていた商人のために、雨風をしのぐ場所を与え、暖を取らせたうえで豪勢な食事まで与えている。やたらと気が利く気前のいい「野獣」なのだ。

 言葉遣いもとても丁寧だ。この商人は、世話になったにもかかわらず、娘への土産にと、野獣が大切にしている薔薇を折ってしまう。

 こんな酷いことをされたのに、「なんとも恩知らずの仕打ちですね」「私のお城にお迎えし、命を救って差し上げたのに」と実に丁寧な調子で語りかけるのだ。

 もっとも、その償いとして、娘を差し出すよう「野獣」は商人に求める。それに対して商人も仕方がないことだと受け止める。しかしここでも野獣は「3カ月以内に戻ってくればいい」とずいぶんゆるい条件を提示している。

「娘が身代わりになってくれず、いよいよ自分が死ぬことになったら、いろいろすることもおありだろうからということらしい。

 驚くべきことに、そのため何でも好きな宝物を匣(はこ)いっぱい詰めて持ち帰ってよいと『野獣』は商人にいう。なんとも物わかりがよく、気前がよく、寛大な『野獣』だ。商人も商人で、ちゃっかり匣いっぱいの金貨を持ち帰ることにする」

 さてこの商人の身代わりになるのが「美女」ベルである点は、原作も映画も同様だ。ただし原作ではベルには高慢でねたみ深い姉が2人いる。シンデレラとは異なり、実の姉なのだが、美しく性格も良い妹をうとましく思っているのだ。兄も3人いるが、あまり役に立っていない。

 酷いのは商人である父親で、「野獣」の城から持ち帰った金貨を、上の姉たちを嫁にやるために使う。

 一方で孝行娘ベル自身の願いだとはいえ、彼女を「野獣」の城へ連れて行っている。それを姉たちは、厄介払いできたとばかり大喜びする始末だ。

 実は商人が「野獣」の薔薇を折ったのは、ベルへのお土産のつもりだった。その意味で、ベルがまったく関係ないとは言えないかもしれないが、だからといって命を捧げる義理はないだろう。父親の人でなしっぷりでは原作の圧勝なのだ。

「『野獣』がベルを食べてしまうつもりはないのだということは、あとになってわかるが、彼女を一人野獣のもとに残していった時点では、ベルは間違いなく死ぬと父は思っていた。つまり、この父は娘を犠牲にしても自分は助かろうという、とんでもない父なのだ。ある意味で、白雪姫やシンデレラの継母よりもひどいといえる」

「原作とディズニー版」最大の違い

 このあとの展開も、原作とディズニー版はいろいろと異なるのだが、最大の違いは、原作では最後に王子が呪いをかけられたいきさつが明かされるのに対して、映画では冒頭に説明されることだ。

 そのため、ディズニー映画を見る子供たちは、野獣が本当にベルを食べるという恐怖は抱かずに済む。原作の方がその点ではスリルとサスペンスがある。映画版ではその代わりに、薔薇が散る前にベルの愛を勝ち取らねばならないので、時間との勝負というスリルが設定されている。

 映画の観客の多くは、野獣が実は悪い人ではないことを最初から知っている。予告編を見ればベルとダンスをロマンチックに踊っているのだ。だから原作のように「野獣がベルをどう扱うか」でドキドキしろといっても無理がある。別のスリルが必要だったのだ。

 さて、お気づきの方もいるだろうが、ディズニー版では重要な役割を果たす敵役、ガストンについてここまで触れていない。

 実はガストンは、ディズニーの完全オリジナルキャラクターで、原作にはまったく出てこない。

 彼は狩りの腕も、ルックスも、男ぶりも村一番で、村の娘のあこがれの的である。

「自分がまさしく理想の夫であると思っており、なぜベルがその自分を好きにならないのかわからない。(略)

 自分を好きにならないベルのほうがおかしく、『変わりもの』だと思っている。(略)

 彼は女性の幸せとは、彼のために家をきりもりし子供を産み育て彼の足をマッサージすることだと思っている。女性ならば、みなこのような結婚生活に憧れると信じている」

 しかしベルから見れば、ガストンの男らしさは「女性の気持ちを考えず、女性を支配し、威張り散らすこと」とイコールである。

 おそらく原作が描いた時代においてこういう価値観は珍しくなかったのだろうが、現代の観客に向けて、ディズニーは、そしてベルはその価値観を許さない。その結果、ガストンがどうなったか、映画を見た方ならご存じだろう。

原作とは正反対の野獣

 また、原作では美女が野獣の導きで精神的に成長する、という流れになっているが、アニメ版ではまったく逆の展開だ。野獣が美女に導かれ、人間性を取り戻す。

「このようにディズニーは、ボーモン夫人の「美女と野獣」の寓話を見事に現代のフェミニズムの寓話に変えている(略)。

 ディズニーの「美女と野獣」では、美女(ベル)とは男性のセクシズムの圧力に屈しない女性のことだ。そして野獣とは、『男らしさとプライド』の呪縛にかかって、女性を一人の人間として尊重し、愛することができない男性だ。

 そして、野獣であるセクシストは女性の教育の力によって悔い改め、人間に戻ることができる。もちろん、ガストンのように、矯正不可能な野獣もいるが、彼の行く手には死が待っている」

 原作を改変する行為には常に賛否がつきまとう。しかし、ディズニーは常に巧みにその時々の価値観や流行を大胆に取り入れることでヒットを生んできた。特に多くのヒロインが原作よりも意志が強く、活発な女性に「変身」させられている。これがディズニー・プリンセスに少女たちが惹かれる理由の一つかもしれない。

デイリー新潮編集部

2020年10月6日掲載

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