菅義偉と創価学会 かつての敵が学会にとって“歴代最も与しやすい首相”になるまで
最初の選挙では「反学会」
まさに体を張ることで、創価学会に対する忠誠心を証明したということのようだ。
一方の菅首相だが、初めて衆院選に出馬したのは1996年、この総選挙は新進党が政権交代を謳って自民党に総力戦を挑んだことが最大の特徴だった。
新進党には公明党の一部議員が参加していた。自民党にとっては文字通りの“敵”だった。
そのため菅首相は当時、「自民党からも心配の声が出るほどの反学会キャンペーンを張って選挙を戦った」という。乙骨氏が言う。
「96年11月、自民党の機関紙である『自由新報』が菅さんの選挙のことを取り上げています。
菅さんの対立候補は創価学会プロパーの公明党議員で、新進党の結党に参加し、新進党から出馬しました。
そのため、菅さんは徹底して学会を攻撃。対立候補が約6万5000票だったのに対し、約7万票を獲得して初当選を果たしました」
集団的自衛権でも協議
ところが1999年、自民党は何と公明党と連立を組んでしまう。
「菅さんは神奈川県の本部に出向き、何度も何度も謝罪したといいます。そして神奈川県における公明党候補を全力で応援するようになっていきました」(同・乙骨氏)
菅=佐藤ラインを、かなり早い段階で報じた新聞の1つに、九州のブロック紙・西日本新聞がある。
同紙は2014年4月5日、「集団的自衛権を追う」という記事を1面と2面に掲載した。クレジットは《東京政治取材班》となっている。冒頭を引用しよう。
《「今国会中に集団的自衛権をやりたい」
安倍晋三政権の大番頭である菅義偉官房長官が切り出した。2月中旬、都内で密会した相手は、公明党の支持母体である創価学会の佐藤浩副会長。全国青年部長を務めた実力者で政界とのパイプ役だ。佐藤氏は即座に首を横に振った。
「のめない。それでは共同歩調は取れない」》
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