【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(8)津波から10年目「母と息子」の元へ逝った娘 魂となり逢える日まで(8)
東北一の大河、北上川は宮城県石巻で海と出合うが、最下流は異なる河口に至る2つの流れに分かれる。
1つは石巻市中心部を貫流する本来の旧北上川、もう1つは、北の追波湾に流れる新北上川。昔から石巻の街を脅かした大水害を防ぐため、在来の追波川の河道を大開削する流路分割工事が明治から昭和初めまで行われ、雄大な三陸の海に注ぐ、延長9キロの新しい北上川が生まれた。
2011年3月11日の東日本大震災では、波高15メートル前後とされる大津波が追波湾沿岸の集落を尽く呑み込み、さらに新北上川を遡上して4キロ上流にあった大川小学校の児童・教職員84人遭難の悲劇を生んだ。
被災地の風景が累々と連なった川沿いの国道を、筆者はこれまで何度往復したか分からない。
震災でわが子を亡くした親の終わらぬ思いを伝える本連載の取材で、今年の秋彼岸を前にした9月17日、海の復興に奮闘してきた人の「それから」を訪ねた。
北上町十三浜へ
広大なヨシ原の対岸にある大川小の廃墟を遠望し、集団移転団地や小中学校、総合支所などがある「にっこりサンパーク」を過ぎると、新北上川は追波湾と1つになる。地名でいうと石巻市北上町十三浜。
道路標識には吉浜、月浜、白浜など、津波で姿を消した集落の名が次々と現れる。リアス式の湾岸は13の浜を数え、かつては十三浜村といった。アワビ、ワカメが特産で、波荒い三陸の海で養殖された「十三浜わかめ」は、肉厚で味が良いと全国に知られている。
海が迫る山中の道とトンネルを縫い、数えて8つ目の浜が大室だ。
小さな港には、荒々しい岩肌の小島とワカメ収穫用の小型漁船が数十艘。震災前は狭い山峡に50戸、53世帯がひしめく漁村集落だった。
ほぼ全戸が津波で流失した後は無人の空間になり、国の緊急支援で建てられた大テント型のワカメ加工出荷の共同作業場、プレハブの工事事務所や漁具小屋が立つだけだ。
2014年2月末、ここで会ったのが当時宮城県漁協北上町十三浜支所の運営委員長(2007年の漁協合併前は組合長)だった佐藤清吾さん=現在(78)=。前年8月の東京電力福島第1原子力発電所の汚染水流出事故と、その後の風評によるワカメの安値、折から収穫期に襲来した南岸低気圧の被害など復興を阻む難題とともに、十三浜の暮らしの歴史について、清吾さんは語ってくれた。
1950年代後半まで貧しい半農半漁の村だった十三浜では、高度経済成長期の東京などへ現金収入を求めて、男たちが出稼ぎに行ったという。毎年4月から10月まで異郷で働いて帰り、11月にはアワビ漁。半年分の失業保険をもらい、また集団で出稼ぎ先に向かった。
「私は実家の五男に生まれ、家の田んぼを耕したり、近海マグロ船に乗ったりした。出稼ぎには行かなかったが、家族と半年も離れて働くような村の暮らしに、誰もが疑問を抱えていた。それから、ワカメの養殖が世に出たんだ」
宮城県出身で日本のワカメ養殖の創始者・大槻洋四郎が戦後、牡鹿半島の女川町で初めて実践して沿岸部に普及し、十三浜の若い漁業者たちもこぞってワカメ養殖を始めた。
「十三浜を出稼ぎから救ったのがワカメ。1970年代には県内一の特産地になった。
私は石巻の不動産会社、北上川の砂利採取会社の営業とかいろんな職を経験し、大指(おおざし・十三浜の集落)出身の女房と結婚したのが縁で、ワカメを手掛ける義兄の仕事を手伝うようになった。
収穫期は、沖合の水揚げから港でのボイル(釜ゆで)、塩蔵まで大変な重労働で、子どものいなかった義兄を助けたかった。寒く暗い早朝に海に出て作業をし、午前8時には会社に行った。きつかったけれど、ワカメの仕事を覚えられた」
子どものころからアワビ獲りの名人でもあり、海の経験と知識、サラリーマン時代に培った組織のリーダーシップと義侠心のある清吾さんが、地元の漁協組合長に推されたのは1998年のことだった。
津波で亡くした妻と孫
三陸の海と小さな港を除いて何もなくなった大室の風景は、津波から何年過ぎても変わらない。その集落跡を過ぎて間もなくハンドルを切り、高台への坂道を上った。2017年7月に、清吾さんが6年4カ月にわたる仮設住宅の生活を終えて新居を建てた集団移転地だ。
集落跡は災害危険区域に指定されて住めなくなり、清吾さんら集団移転希望者の代表が山林所有者たちと交渉して、半年掛かりで造成した新天地だ。海は見えないが緑に囲まれ、まだ真新しい29軒の住宅団地の一角に、目指す薄茶色の家があった。大室は昔からほとんどの家が佐藤姓で、血縁の遠近はあっても暮らしの関係は濃かった。
「この団地も毎日が親戚付き合い。朝夕声を掛け合い、お茶に誘い誘われ、老後を過ごすには最高だね」
と清吾さんは笑った。
日ごろ客が絶えないという居間にある新しい仏壇に、線香をあげさせてもらった。飾られた遺影は妻由美子さん(享年58)と、小学1年生だった孫の嘉宗くん(同7つ)。2人は9年半前の3月11日、大室を襲った津波で亡くなった。
震災前の清吾さんの家は、集落でも国道を挟んで海に一番近い並びにあり、1896(明治29)年6月15日の明治三陸大津波で流失した実家の跡に建てたという。実家は、その時の浸水地域よりも奥まった山のふもとに移築され、清吾さんは分家した際に、元の敷地を譲られた。妻と孫は、安全な場所のはずだった実家と運命を共にした。
清吾さんは県漁協北上町十三浜支部の運営委員長を震災の3年前に辞し、家族と趣味の盆栽作り、そして関心の深かった地域づくりや原発反対の運動などに人生の時間を使おうと決め、穏やかな日々を送っていた。
あの日、いつものように下校する嘉宗くんを車でお迎えし、家で大好きなアンパンマンなどのおもちゃで遊ぶ姿を妻と眺めながら、お茶を飲んでいたという。午後2時46分ごろ、いきなり大きな地鳴りとものすごい揺れが始まり、築40年の家が潰れるとの恐怖に襲われた。
外に出ると、大揺れの集落中から叫び声が響き、「必ず津波が来る」と確信したという。三陸沖が震源の津波は約30分で到達する――との口伝があった。すぐ近くの山神社の石段を駆け上ることもできたが、ラジオの大津波警報で「宮城では高さ6メートル」と聞き、
「海抜5メートルの自宅は被災が不可避でも、実家は大丈夫」
という算段もあった。
「女房が新車を買ったばかりで、明治大津波の教訓を生かして移転した実家を避難先にした。年老いた兄と車いすの姉ら、そして嘉宗のことを頼む、と言い残して、私は自宅に引き返した。港の漁師たちが心配だったし、40年も手塩にかけた庭いっぱいの松柏の盆栽を目に焼き付けておきたかったんだ」。
清吾さんは万が一の安全確保のため、集落を見渡せる国道の高い鉄橋に自分の車を停めて待った。第1波は意外に小さくやって来て、漁具類を海に流す程度だったが、次には巨大な壁のような津波が止めどを知らぬ勢いで押し寄せ、
「『もうやめてくれー』という悲鳴があちこちから聞こえた」
と清吾さんは回想する。
港の漁船を次々になぎ倒して集落に運び、家並みを奥へと押し流して山にぶつけ、猛烈な引き波ですべてを海へと引きずり込んだ。残骸の山だけが後に残り、降りだした雪に真っ白く埋もれていった。漁師たちが津波から守ろうと沖出しした数多くの船の姿も、ほとんど見えなくなっていた。
「流される途中、松の木に飛び移って助かり、自力で帰った人もいたけれど、たった1人。
家々はそのまま海に浮かんで漂い、北上川の上流からも数え切れない家が流されてきて、まるで海の上に町があるようだった。だが、やがて沖へ流されながら沈んでしまったのだろう」
清吾さんは悪夢か現実か分からぬまま実家の方へ、必死でがれきの上を歩いたが、どこにも人の姿はなかった。暗闇が迫る中、山に逃げて下りてきた集落の人たちに遭遇し、
「私の女房と孫が、実家の後ろにある2階家のベランダにいながら流されていった、それを見た、と聞かされた」
重い後悔と自問
由美子さんは自宅でパーマの店を営み、38年の結婚生活だった。清吾さんは再婚で、気の進まぬ見合いをしたという11歳下の最初の妻と1年で別れ、その同級生だった由美子さんと偶然、共通の親戚筋の人の入院見舞いで出会った。
「私が頓着せずに冗談を言ったら、面白い男だと思われた。一目ぼれだった」
由美子さんは1度も誘いを断らず、結婚へと2人の気持ちは固まったが、年齢差と離婚歴に実家の親が難色を示し、清吾さんに「諦めろ」と人を介して伝えたという。
「思いをそれ以上押し通すことができなかったが、女房の意思が強く、私を奮い立たせてくれた。茨の道の結婚を認めてくれ、応援してくれたのが義兄だった」
明るく真っすぐな由美子さんは、それからも清吾さんの生き方を支え、励まし、生き甲斐になった。
高台移転地の新居に入って間もない2017年9月のお彼岸前にも、筆者は清吾さんを取材で訪ねた。
由美子さんの写真も津波で流され、宮城県多賀城市に住む長男から結納の時の黒留袖姿の写真をもらい、遺影にしていた。清吾さんはそれを大きく引き伸ばして額に入れ、嘉宗くんの遺影と並べて寝室にも飾っていた。
「面白いことがあっても、つらいことがあっても、日に何度も思い出す。親に反対されたまま結婚しなければ、津波に遭うこともなく、別の場所で幸せな人生を歩んでいたかもしれない、と思うこともある」
新居では、嘉宗くんの母親で、仮設住宅の隣室で暮らした長女の志保さん(当時46)と晴れて同居することができた。志保さんの友人が生前から由美子さんを慕い、新居にも泊まりに来て、
「この家で、奥さんと会って話をした夢を見た」
と語ったそうだ。清吾さんは、
「遺品は何1つないが、女房はやっぱりここに来てくれているのだな」
とその時、うれしそうな顔をした。
それから3年後の再訪になった今年9月17日。由美子さんと嘉宗くんのいる仏壇の下に、志保さんの写真があった。左手でVサインをつくって微笑む顔の真新しい遺影だ。亡くなったのは7月7日という。あまりに突然だったと、清吾さんへの久しぶりの電話で知らされた。
嘉宗くんが1歳になったころ、志保さんは離婚し、それまで暮らした大阪まで、清吾さん由美子さん夫婦が傷心の娘を飛行機で迎えにいった。
それから、大室の佐藤家は3世代の和やかな生活が続いた。志保さんは自然豊かな故郷で心を癒しながら石巻近郊の高齢者施設の仕事に通った。嘉宗くんは自閉症があり、家族や周囲の人々に支えられておおらかに成長し、学校が大好きだったという。
津波襲来の日、志保さんは勤め先からひたすら家路を急いだが、被災地となった十三浜には車で入れず、「にっこりサンパーク」の避難所に泊まり、捜しに来た清吾さんと翌日夕、大室の手前で出会えた。志保さんが連れていかれた先は、清吾さんがワカメ収穫を手伝っていた大指の義兄夫婦の家。高台にあって被災を免れ、「せめて温かい布団で娘を休ませたい」という親心だった。
「がれきの上を、懐中電灯だけ頼りに歩いた道々、大室の状況を話したが、娘は黙っていた。母親と嘉宗が亡くなったことを、前の晩、避難所で親戚から聞いたようだった」
清吾さんの心には、負い目というには余りに重い後悔と、答えのない自問が渦巻いていた。
「自分の生半可な判断が妻と孫を死なせてしまったのではないか。最愛の息子を亡くした娘にはかわいそうなことをした。もし私が2人と一緒にいたら、一緒に助かったという確たる根拠もないが、あるいは一緒に死んだかもしれず……」
浜の復興に奮闘
父と娘にとってさらに辛い時間が、それから始まる。やはり被災地となった多賀城市の長男寛さん(44)一家、隣の塩釜市にいる次女恵さん(36)の無事を確かめた後、清吾さんは車のガソリンが続く限り、志保さんと各地の遺体安置所に通った。
十三浜から近い北上川上流の石巻北高飯野川校体育館に始まり、石巻市内の旧青果花き地方卸売り市場や桃生町飯野新田体育館、女川町総合体育館――。
由美子さんと嘉宗くんは見つからず、海を漂った遺体は仙台に近い利府町の「グランディ21」に安置されていると聞いて、スタンドでわずかな割当量の給油を辛抱強く順番を待ちながら遠出をした。
「家ごと流された末、漂流物にすがりついたとしても、誰もが冷たい海で凍え死んだに違いない。日が経つうちに、どうやっても女房と孫がもう目の前に現れることはないだろうと思った。
志保はわずかな望みを携えて、安置所で子どもの遺体があると、身長や体格を確かめようと足を止め、数えきれないほど捜し歩くうち、精神的にまいっていった。励ましたり慰めたり、道々いろんなことを話したが、娘の心情を察すれば、『見つかるならば2人が一緒に、見つからないなら2人とも見つからないでいい……』とひそかに願っていた」
家族喪失の精神的な打撃は、清吾さんも同じだった。大室など十三浜で暮らしていた身内では、由美子さんと嘉宗くんのほか、3人の兄姉、2人の甥、10人のいとこが犠牲になった。
避難所に入らず、志保さんと共に義兄夫婦の家で世話になっていた清吾さんは、「この先は一緒に暮らそう」と言ってくれた長男を頼り、十三浜を去ることを心に決めていた。
ところが、昔なじみの漁師たちが毎日のように訪ねてきては、
「あんたしかできない。もう一度、十三浜支部の運営委員長をやってほしい」
と訴えた。
十三浜では住民約2400人のうち1割以上の296人が死亡・行方不明となり、全部で388隻あった漁船もわずか40隻残るだけになっていた。漁師たちは家も衣服も生業の手段も、収入も財産もなくしたところから復旧・復興に歩み出さねばならず、導き手となるリーダーを求めた。
清吾さんは、
「人様を助けるどころの状態じゃない。自分1人の明日も分からず、途方に暮れているんだ」
と本心から固辞したが、最後には、
「この惨状から逃げないでくれ」
と懇願された。未曽有の労苦を背負う覚悟を迫る言葉だった。津波から3カ月後、清吾さんは再び運営委員長を引き受けて1人で仮設住宅に入り、志保さんは仙台に高齢者施設の仕事を見つけて大室を離れた。
海のがれき処理の日当で仮設暮らしを支えながら、清吾さんと漁協支部の仲間は翌年のワカメ養殖再生に向けて活動を始めた。拠り所の集落を失い、生き延びた住民も数多く石巻の街へ流出した十三浜にとって、それが唯一の希望だった。
清吾さんは、国の支援で漁船が再建されるまでの間、残った貴重な船に、活動に取り組む意思のある漁師全員が乗れるよう提案し、「一丸となって十三浜を復興しよう」と前例のない共同利用に賛同を集めた。やむなく街に移った組合員たちも浜に通うようになり、ワカメ収穫期の活気は次第によみがえった。
国際NGO(非政府組織)「パルシック」や日本福音ルーテル教会、生活クラブ生協、千葉県我孫子市の歯科医師とボランティア仲間、雑誌『婦人之友』の仙台在住の記者が全国友の会に呼び掛けた「十三浜わかめクラブ」……。
十三浜を遠路訪れ、浜の復興とワカメの生産・購入を応援する人々と清吾さんは新しい縁を結び、「その多忙な毎日と感謝の思いが私を立ち直らせてくれた」と振り返る。
震災から10年目の死
震災後の苦闘の中で清吾さんが、うれしさで忘れられないという日がある。
2013年5月4日、地元に伝わる「大室南部神楽」が復活上演されたのだ。大正初めから集落の暮らしに根付いた神楽で、代々の小学生が大人たちから舞いを習い、年1度の上演が住民の楽しみだった。しかし、
「受け継ぐ若い人が少なくなり、15年ほど前から途絶えていた」
と筆者は当時、保存会の古老から聞いた。さらに震災で人々はばらばらになり、津波が神楽の衣装や鉦太鼓もすべて流し去った。
復活のきっかけをつくったのは、震災翌年のお盆、大室に集まった若い世代。「古里をなくすまい」と神楽の伝承を誓い合い、秋から集落跡の工事事務所の2階を借りて毎週金曜夜、わが子を連れて稽古に通い始めた。
衣装は母親らが手作りし、小道具類は支援を得て調達。30~40代の親がダイナミックな大人の舞いで手本を見せ、復活を喜んだ仮設住宅の年配者が囃子方を引き受けた。
復活上演の当日、ワカメの共同作業所の大テントの下には舞台が組まれ、紅白の祝い幕と大漁旗が飾られ、客席は約1000人の来訪者でいっぱいになった。勇壮で美しい演目の数々を法被姿で見つめていた清吾さんは、稽古の成果を晴れ晴れと披露した子どもたちに涙を浮かべた。そして、由美子さんへの追憶もそこに重なった。
「女房は祭りが好きで、世話好きで、神楽を舞う子どもたちの面倒を付きっ切りで見たものだ。大人の神楽の衣装もみんな洗っていた。家に客が何人寄っても、困らずに酒肴もご飯も出してくれた。私はただ、そばでにこにこしていればよかった」
復活上演の後、多賀城の寛さんの子どもたちも遠路稽古に通うようになった。「孫が受け継いでくれた」と清吾さんはしみじみと語り、その輪の中に、神楽を舞う嘉宗くんの姿も見ていた。
仙台でアパートを借りて暮らしていた志保さんが、清吾さんのもとに帰ってきたのは、高台の新居が建つ2年前だった。
高齢者施設の後、障害のある子どもたちの放課後ケアの仕事をしたが、震災後に抱えた腎臓の持病が重くなり、人工透析が必要な体になっていた。清吾さんは、たまたま空いていた仮設住宅の隣の部屋を借りて迎え、心身を休ませてやった。
「娘の体調はかなり悪く、こちらでも週3回、市外の病院へ透析に通い、もう仕事はできなかった。私は(2014年に)漁協の運営委員長を引退し自由の身になっており、年金でほそぼそとでも娘を養うつもりだった。
新居では、小さな畑で2人が食べる分くらいの大根や白菜やキャベツを作った」
「もう結婚するつもりはない」と話していたが、志保さんは恋をした。やはり津波で石巻市内の実家を流され、両親を亡くしたという男性だった。結婚したい気持ちを清吾さんに打ち明け、新居で一緒に暮らすようになった。
震災で最愛の嘉宗くんを亡くし、心のうちのつらさ、苦しさを父親にぶつけることもなく、ただ癒えぬ痛みとともにいた志保さんが、ようやく見つけた明日への夢だったかもしれない。
今年になって病院の事情で石巻市内に通院先が変わり、志保さんがいつものように家を出た6月27日朝。清吾さんは突然、警察官の訪問を受け、
「娘さんが倒れて、救急病院に運ばれた。使っている薬と、お薬手帳を見せてほしい」
と伝えられた。尋常な状況でないと察し、すぐに車で入院先へと急いだ。志保さんは前夜から吐き気に苦しんでいたという。家から30分ほどの所にある道の駅で車を止め、ドアを開けたまま倒れていた、と清吾さんは後で聞いた。
集中治療室に運び込まれた志保さんの意識はずっと戻らなかった。毎日病院に通い詰めた清吾さんは、7月7日午後8時過ぎ、いったん帰り着いた家で「危篤」の電話を受けた。そして同9時20分、飛ぶような思いで病室に戻った時には、すでに志保さんは息を止めていた。
初めて知る娘の心
新居がある高台の集団移転地の近くに、大室の共同墓地がある。彼岸前の掃除をしに来た隣人たちと、清吾さんは笑顔で声を掛け合った。「ほとんどの住民が親戚」と聞いたとおり、「佐藤家」の墓石が並ぶ。
由美子さん、嘉宗くんが眠る墓には、「七月七日示寂 嘉実照陽志鏡大姉」とある志保さんの白木の位牌が置かれていた。そばには、嘉宗くんが夢中だったアンパンマンの小さな石像も。清吾さんはそこでゆっくりと手を合わせた。そして、
「志保が亡くなった後で、私は娘の気持ちが初めて分かったんだ」
と語った。
志保さんは3年前、東北学院大学の研究者に協力して、嘉宗くんへの思いを手紙の形でつづり、それが『悲愛』(新曜社)という手記集に収められた。生前、清吾さんには読ませてくれず、ようやく目を通すことができたのだという。志保さんがずっと心にしまっていた声がそこにあった。
〈生きる希望が消えた。でも、ガッカは泣けなかったんだ。ジッチが、ヨシムネを安心と思って逃がした所にまで津波が来て命を落とすことになって、責任をものすごく感じて毎日泣くんだ。だから、ジッチの前では泣けなかった。責めてしまいたくなるから、泣けなかったんだよ。ガッカの心も二〇一一年三月十一日、死んだんだよ〉(前掲『悲愛』より)
「7月7日の七夕の夜、志保は、会えなかった嘉宗と母親のいる世界へ行った。そう思っているんだ。体調に苦しみ、亡くなる前から『2人のところに行きたい』と言っていた。志保の京都の友人が嘉宗の供養にと、写真から美しいチョークアートの肖像画を描いて送ってきてくれた。届いたのが亡くなる3日前。もう見られないのかと無念だったが、いまごろは、また親子一緒に暮らしているよ」
清吾さんは、愛しい家族たちと暮らした大室の自宅跡に、リンゴやナシ、プラム、カキ、栗などの苗木を植えて大事に育てている。
「私には、津波で逝った家族、親戚たちの供養をする役目がある。お彼岸も盆も、墓参りの人たちが思い出話に立ち寄れる場所は私の家だけ。それが、1人だけ生かされた理由だと思う。『俺が役目を終えて旅立ったら、その果実をみんなにお供えしてくれよ』と長男には言ってあるんだ」