一世を風靡した女たちの消息 「榎美沙子」「ケバルト・ローザ」「やまのべもとこ」
「人間って、ずるいもんでね、徐々に男の本音が出たんです」
――離婚の原因は?
「人間って、ずるいもんでね、徐々に男の本音が出たんです。子供がほしいとか、家庭らしさがほしいとか。朝食を作ってもらったことなんて、何度あったか。生活観も違いました」
「僕はサラリーマン家庭で育ったけれど、彼女の家は商売をしていたから、生活文化が違っていた。それは再婚して初めて分かりました。まあ、僕が悪いんです」
「別れる前には、もうそういう女性がおったということです。生まれ変わってもう一度結婚するとしたら、やっぱりいまの女房ですねえ」
「いまは家庭があって子供が一番だから。彼女には申し訳ないと思っています。だから、(慰謝料として)4年間で1000万渡しました。元気にしているといいのですが」
そう話す前夫は、家族愛に包まれているせいか、屈託のない笑顔を浮かべたりして、実に幸せそうであった。
一方、榎の行方は杳として知れない。何しろ、今年1月に亡くなった母親の葬儀にも顔を出していないのである。
「随分探したのですが、母親が亡くなったことを知っているのかどうか……」
徳島に住む親族はそう嘆く。
「ローザ・ゲバルテンブルク」「駒場のジャンヌダルク」「チェ・ゲバ子」
さて、「造反有理」の風が吹き荒れ、東大生までが安田講堂に立てこもったりして暴れたのは昭和44年のこと。
この東大紛争で勇名を轟かせたのが、「ゲバルト・ローザ」こと柏崎千枝子(58)だ。
彼女が書いた『ゲバルト・ローザ闘争の手記太陽と風と自由を』の表紙裏には、「著者の横顔」としてこうある。
〈闘いの中で、学生たちは尊敬と愛情をこめて、著者をこう呼んだ。「ゲバルト・ローザ」「ローザ・ゲバルテンブルク」「駒場のジャンヌダルク」「チェ・ゲバ子」。いずれも、行動の最前線に自分を置き、多くの男子女子学生に、勇気と正しさを身をもって示す著者の役割と性格を物語っている〉
東大大学院の博士課程に在籍していた彼女は、ともかく直情径行の人で、「日に一度はポカリとやらないと気がすまない女」と言われていた。
で、体制派の教授はもちろん、日和見の学生を見つけてはポカリ、民青を捕まえてはポカリとやっていた。
先の著書から、44年3月3日の大衆団交のワンシーンを引用する。
《生物学の教授佐藤重平は、学友が真剣に追及しているとき、自分とはいっさい無関係だという顔をして、耳に栓をして本を読んだり、寝たりしていた。そうした不まじめな態度を問い詰めると、ニヤニヤ笑いながら「君たちの質問などに答える必要はない」と返答したのである》
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