一世を風靡した女たちの消息 「榎美沙子」「ケバルト・ローザ」「やまのべもとこ」
〈無職(28)。愛人の座を追わる。要求・現金3000万円→妥結・2000万円〉
《リーダーらしき女性は答えた》
《「あなたの部下の××氏は、妻をむりやり離婚させたうえ、財産を一銭も渡さないという。同じ女性として見逃すわけにはいきません。上司であるあなたの責任も追及します」》
《数度の押し問答のあと、営業所前に座り込んだ女性たちは「全財産よこせ」のシュプレヒコールをあげ……》(同)
恐喝、威力業務妨害、名誉毀損その他、ざっと1ダースほどの法律が適用できそうな無法行為であるが、当の榎は悠然とこう語っていた。
「会の発足以来1年4カ月、これまでに扱ったのは400件。いずれも全面勝利で失敗したのは1件もありません」
「まだまだ未解決の訴えが600件も残っておりますの。順番待ちというところですわね」
怖いものなしの榎は20人を超す自民党議員のもとへも出かけ、「これも全て解決した」と豪語し、こんなブラフまでかけている。
「もし国会の先生方が、必要な時に協力してくれなかったり、圧力などを加えてきたら“バラすわよ”、ということもありえますわね」
当時、「中ピ連」が発表した「戦果」は以下の通り。
〈無職(28)。愛人の座を追わる。要求・現金3000万円→妥結・2000万円〉
〈無職(37)。同棲の手切れ。要求・3500万円(生活費等)→妥結・1500万円〉
〈教員(40)。婚約不履行。要求・男の面子丸つぶし→妥結・会社をクビになる〉
「手数料は一切取っていない」という「中ピ連」の活動は、かなりの「戦果」をあげた。おかしな話だが、もちろんこれにはウラがあった。
榎は女性たちからの訴えを調査会社に回し、成功報酬等は直接調査会社に振り込まれていたのである。
ママゴトの延長上に過ぎなかった「中ピ連」に、まともな調査など出来るはずもなかったのだ。
タツノオトシゴをご神体とする「女性復興教」を旗揚げ、参院選出馬
昭和51年、榎はオスが子育てをするタツノオトシゴをご神体とする「女性復興教」を旗揚げし、自ら教祖となる。
「日本女性党」の党首を名乗り、翌年夏の参院選に10人を出馬させている。
あやうく出馬しかけた主婦の話を紹介しよう。
「50年に中ピ連へ離婚相談をしたものの、ずっと引き伸ばされていたんです。翌年の暮れには“衆院選が終わるまで待って。いま自民党の大物をとっちめているから”と言われ、それが終わると今度は“参院選があるから”と待たされた」
「年明けに榎が来て、“女性党を作るから立候補して。選挙に出ればダンナへの脅しになる。慰謝料を取ってやる”と口説かれた。そのうち、離婚にケリがつきそうになったので連絡をしたら、今度は“ハシタ金を取ってどうする。出馬すれば3000万円取れる”などと言うんです」
結局、立候補したのは「会」に相談に来た女性やクラブのママなど、泡沫以下の女性ばかり。
全員が落選し、1700万円の供託金が没収されたのはもちろん、選挙資金のやり繰りなどで亀裂が生じ、「中ピ連」の活動そのものにもピリオドが打たれた。
「家事労働で夫への借金を返します」
選挙後、記者会見でそう言い残し、ヘルメットを脱いだ榎は表舞台から姿を消した。
榎美沙子は昭和20年、徳島県の生まれ。京大薬学部に学んだ才媛で、大学を卒業した44年に医師である木内夏生と結婚、58年に協議離婚している。その木内が言う。
「当時のウーマンリブは、学生運動の従軍慰安婦にされた人の復讐みたいなのが主流だったんです。男に従属させられた女の叛乱ですよ」
「彼女には、怨念とか情念とかはないから、ウーマンリブと相容れなかったのは当然だったんです。家政婦のいる家でお姫様みたいに育ち、学生運動にも参加せずに勉強していた人なんです」
「エリートとしての自負もあったし、そういうのが女同士の中で浮いていたのでしょう。(中ピ連を)解散したのは潮時だと思ったからでしょう。広がりすぎた運動に収拾をつけるのに無理があったんですよ」
次ページ:「人間って、ずるいもんでね、徐々に男の本音が出たんです」
[2/5ページ]