殺人や自殺はなぜいけないのか 養老先生の回答
なぜ自殺はいけないのか。結局は自分の体ではないか。
正面から問われると、意外と答えるのが難しい問いかもしれない。『バカの壁』で知られる解剖学者の養老孟司さんは、著書『死の壁』のなかで、この問いに答えている。同書にある養老さんの考えをまとめてみよう(以下、引用はすべて同書より)。
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一冊丸ごと「死」を語った同書の冒頭でまず養老さんは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて論を進めている。この問いは、神戸の14歳の少年が連続殺人で逮捕された頃によく取り上げられたものである。
これに答えるために養老さんはロケットの話から入る。
中国が有人宇宙船の発射に成功した、といったことがよく「快挙」として取り上げられる。しかし、飛ぶだけなら蠅でも飛ぶではないか。そう養老さんは指摘したうえでこう話を展開する。
「よく考えてみれば、蠅でも蚊でも飛ぶのです。それも自分たちの思った通りのところに着陸する。計算通りにしか飛ばないロケットとどちらが凄いのか。そう言われて悔しかったら実際に蠅や蚊を作ってみろ、と言いたくなります。
宇宙ロケットは非常に複雑に見えて実は極めて単純なシステムです。人間が計画して、その通りに事が進んだら、それはそれですごく嬉しいことかもしれません。
でも、それで得意になっている奴に、『計算がいくら上手く出来るといって自慢しても、あんた、自分の告別式の日だって知らないじゃないか』と言ったらどうでしょう。言い返せないのではないでしょうか。
そんなこともわからない人間が、あの程度の計算が出来たといって喜んでいるのが現代文明というものの正体なのです。それで平気で蠅や蚊を叩き潰している」
一体話がどこへ向かうのかと不安になるかもしれないが、養老さんの話はこう続く。
殺すのは簡単
「人は青酸カリで殺すことが出来ます。出刃包丁で殺すこともできます。(略)
簡単に人間を殺すことが出来るこの青酸カリや出刃包丁といったものが、人間とくらべたらどれだけ単純なつくりのものか。
システムというのは非常に高度な仕組みになっている一方で、要領よくやれば、きわめて簡単に壊したり、殺したりすることが出来るのです」
ここでいうシステムは簡単にいえば「人間も含む自然や環境のこと」だ。生物も植物も含まれる。
「だからこそ仏教では『生きているものを殺してはいけない』ということになるのです。殺すのは極めて単純な作業です。システムを壊すのはきわめて簡単。でも、そのシステムを『お前作ってみろ』と言われた瞬間に、まったく手も足も出ないということがわかるはずです。(略)
さてこう考えればなぜ人を殺してはいけないのか、なぜ生き物を殺してはいけないのか、その答えはおのずと出てくるはずです。
蠅を叩き潰すのには、蠅叩きが一本あればいい。じゃあ、そうやって蠅叩きで潰した蠅を元に戻せますか」
養老さんがブータンに旅行した際に目撃した光景がある。地元の人のビールに蠅が飛び込んだ。日本人なら大騒ぎかもしれないが、その人はそっと蠅をつまんで逃がして、ビールを飲み続けた。その様子を見ている養老さんに、
「お前の爺さんだったかもしれないからな」
と笑いながらその人は言ったという。
二度と作れないもの
「今は蠅の姿をしていても、実は私の祖先が生まれ変わった形かもしれない、というのです。彼らのなかでは、蠅ですらも簡単に殺してはいけないという論理がこんな形で存在している。生き物の生命は繋がっているという論理だと言ってもいいでしょう。
ブータンでは珍しくない考え方なのだと思います。しかし、他の国ではどうでしょう。今はあちこちで生命を平気で叩き潰しています。そういう現代人が『なぜ人を殺してはいけないのか』と聞かれても答えに詰まるのは当然のことかもしれません。
こういう問いには、現代人よりも昔のお坊さんのほうがよほど簡単に答えることが出来たはずなのです。『そんなもの、殺したら二度と作れねえよ』と」
もちろん、そうは言っても私たちは何らかの生命を犠牲にしながら生きているのも事実だ。それはたとえベジタリアンになっても変わらない。
「ただ、私たちの誰もがそういう罪深い存在であるという思いは持っているべきだ、と思うのです。そんなふうに考えていれば、『なぜ人を殺してはいけないのか』なんてことの答えはおのずと出てくるはずなのです」
人がもっとも影響を受けるのは「二人称の死」
自殺がいけない理由の一つはここにある。自殺は殺人の一種だからだ。
さらに養老さんは、自殺は「二人称の死」である以上、周囲の人に大きな影響を与えてしまう点を忘れないでほしいと強調する。「二人称の死」とは何か。
同書では死体には一人称、二人称、三人称の3種類があると述べられている。「一人称」は「私」なので「自分の死」。「二人称」は身内や知人など見知った人の死。「三人称」は知らない人の死。
「自分の死」は誰にとっても大きな問題だが、それを実感することはできない。訪れた時には死んでいるからだ。
また「三人称の死」を聞いて、悲しんだり同情したりすることはあるだろうが、「二人称の死」には及ばない。ときには無反応であってもおかしくはない。
人がもっとも影響を受けるのは「二人称の死」である。
周囲の人にとって、身内や知人の自殺は当然「二人称の死」にあたる。実際に面識がなくとも、有名人の場合は多くの人が知り合いのような気持ちでいるからやはり「二人称の死」に極めて近い。
「先日、身内に自殺された人から手紙を頂きました。その方は、どんなに自分がその身内に対して一生懸命尽くしてきたか、それでも自殺されてしまったことにどれだけ傷ついたかを綴っていました。死んでしまう人が残された人たちに大きな影響を与えるとわかっていたのかは疑問です。
病苦で辛くて仕方なく……という人は別として、そもそも自殺した人たちがどこまで真剣に自殺しようとしていたのかはわかりません。もしかしたらはずみだったのかもわからない。
私は自殺したいと思ったことはありません。簡単にいえば、『どうせ死ぬんだから慌てるんじゃねえ』というのが私の結論です。こう言うと『どうせ死ぬんだから今死んでもいいじゃないか』と言う奴がいるかもしれませんが、それは論理として成立していない。なぜなら、それは『どうせ腹が減るんだから食うのをやめよう』『どうせ汚れるから掃除しない』というのと同じことだからです。
勝手に『一人称の死』についてのみ考えて、それが『二人称の死』としてどう受け止められるのか、その影響を考えずに自殺することがよいとは思えないのです」
一人称、二人称と言葉はちょっと難しいけれど、ここで述べているのは誰もが共感するところだろう。「残された人のことをもっと考えてみよう」ということだ。一切身内も知り合いもおらず、孤島で一人暮らしをしている、という人以外、その死は必ず「二人称の死」となる。
養老さんは、一冊丸ごと死について語った同書を次のような文章で結んでいる。
「死は回復不能です。一度殺した蠅を生き返らせることは出来ません。
だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。安楽死をはじめ、死に関することを簡単に考えないほうがよい。
しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。
ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。今日という日は明日には無くなるのですから。
人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。
そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです」
もちろんこれはあくまでも養老さん流の説明。「もっと簡単に、ダメなものはダメ!で十分」という方もいるに違いない。
ただ、人それぞれ「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ自殺はいけないのか」についての自分なりの答えを持っておくのは大切なことではないだろうか。