ファーストレディの肖像 小渕、福田、森、橋龍、村山、野田…各首相の妻たち
「平成おじさん」“冷めたピザ”“ブッチフォン”と過ごした人生から
これまで表舞台にほとんど顔を覗かせることがなかった菅義偉首相夫人がいるかと思えば、外遊・外交に寄り添って首相をサポートした賢夫人もいて、ファーストレディにも様々な形がある。今回は、小渕恵三、福田康夫、森喜朗、橋本龍太郎、村山富市、そして野田佳彦の各首相夫人の肉声などを交えつつ、その肖像に迫ってみよう。
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官房長官として新元号を掲げた「平成おじさん」で有名になり、“冷めたピザ”と当てこすりをされると、温かいピザを記者に配ったという小渕恵三元首相(享年62)。2000年5月、現職のまま脳梗塞で倒れ、意識を回復することなく帰らぬ人となった。
「主人も私も、群馬県吾妻郡中之条町の生まれです。私たち夫婦の出会いは、主人が23歳、私が20歳の時でした。地元の中之条駅で、本当に偶然出会ったんです。居合わせた共通の知人に紹介され、それから付き合いが始まりました」
と、かつて週刊新潮のインタビューで語っていたのは、小渕恵三元首相の妻・千鶴子さん。
「主人は太宰治に憧れて早稲田大学の第一文学部に入学しました。彼が大事にしていた昭和20年頃に出版された太宰治の本が残っていますが、繰り返し読んだせいか、表紙が茶色く変色しています。もともと文学青年で、小渕家の次男だから、政治家を志していたわけではなかったのです」
ところが、在学中に代議士だった父・小渕光平が急逝。家業の製糸業は兄が継ぎ、小渕氏は亡き父親の遺志を継いで、大学院の政治学研究科に進む。
挙式は昭和42年。小渕氏が2度目の当選を果たした後だ。当時は中選挙区制で旧群馬3区からの出馬。
「私には(決まった元号を)言わないで下さい」と伝えていた小渕夫人
同じ選挙区には福田赳夫、中曽根康弘の首相経験者がいる。小渕氏本人が「オレはビルの谷間のラーメン屋」と自嘲気味に語ったように、元首相という“ビル”を前に、常に苦しい闘いを強いられた。
「昭和47年の選挙では約3万7000票という全国の当選者の中でも最低の得票数で、これには主人もショックを受けていました」
「その次の選挙では、私も子供を東京に置いて地元に足を運びました。“浅間おろし”が吹き荒れる中、寒さに体を震わせながらコンニャク畑を駆け抜け、トウモロコシ畑の間を縫って走り回りました」
その甲斐あって当選。一度も落選せず政治家を続けてこられたのは幸せだったと述懐する。
一方で、「平成おじさん」については、
「当時、主人には“私には(決まった元号を)言わないで下さい”と伝えていました。たとえ寝言でも私の口から漏れるようなことがあっては大変だからです」
「その時期は竹下政権の官房長官で多忙を極めていました。でも一番大変だったのはやはり総理になってからです」
午前3時頃に就寝し、朝6時には起床する生活。
「外遊も多く、気温マイナス20度のロシアを訪問して、帰国した2日後に32度のマレーシアに向かったこともあります。52度も温度差があったので、お医者様からは体に毒だと言われました」
「(倒れた)あの年は3月末に沖縄サミットの視察に行き、それから1週間後に脳梗塞で倒れました。4月2日の夕食後、応接間のソファでテレビを見ている時、麻痺が始まったのです。主治医の指示で順天堂医院に入院。そのまま目覚めず、亡くなったのは約1カ月半後の5月14日でした」
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