「菅義偉」は初の法政大出身首相 同級生「生島ヒロシ」が語る“苦学と空手”秘話
学費は年5・5万円
ならば菅首相や生島氏といった当時の受験生は、どうやって志望大学を決めていたのだろうか、生島氏に訊いた。
「確かに全国をカバーする大手予備校などなかった時代でした。しかし旺文社など出版社が模試を開催していました。挑戦すると全国順位が出ます。その順位から志望校の合否や、どの大学なら合格しそうか判断していたわけです」
生島氏は学費などの関係から、高3の秋まで就職を考えていた。だが父親に「受験していい」と言われ、慌てて受験勉強を開始した。最初は私立より学費の安い国立大学を志望していた。しかし、特に数学の成績が伸びなかった。
結局、数学は諦め、志望校を私立大学の文系に絞った。生島氏が言う。
「英語なら高校でも成績はトップクラスで、模試でも全国順位は相当な上位でした。これで自信を持ち、東京の私立大学では学費の安かった法政大学を第2志望に選び、合格しました」
「親が用意してくれた学費は1年分だけでした。残り3年間の学費と、4年間の生活費をアルバイトで賄う必要があり、法政大学に入学しました。今でも覚えていますが、学費は年5万5000円でした」(同・生島氏)
屋上での空手修行
先に紹介した「すが義偉物語」にも《当時、私立でもっとも学費が安かった法政大学に入学》との記述がある。菅首相も生島氏も苦学生だったのだ。
生島氏は気仙沼に住んでいた頃から、ずっと空手に打ち込んでいた。大学に入ってからも準体育会の松濤館流に所属して練習を積んだ。
当時の法政大学には道場がなく、屋上で練習をした。コンクリートの上に素足だから、たちまち足裏の皮が厚くなった。画鋲を踏んでも痛くない時期もあったという。
「昼の稽古から必ず参加しました。ところが僕の横で、同好会でも猛練習で知られる剛柔流の部員が、やはり毎日、昼から稽古しています。会話したことはありませんでしたが、『真面目で熱心だな』と強い印象に残っていました。後で分かったのですが、それが今の菅首相だったのです」(生島氏)
当時の法政大学は新左翼・中核派の拠点校の1つだったこともあり、学生運動は激しさを増すばかりだった。
大学2年生の年は授業も休講が増えていき、生島氏は「ラッキーと感謝しながらバイトに励みました」と笑う。
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