「菅義偉」は初の法政大出身首相 同級生「生島ヒロシ」が語る“苦学と空手”秘話

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学費が安かった法政

 菅義偉首相は1948(昭和23)年、秋田県生まれの71歳。フリーアナウンサーの生島ヒロシ氏は1950年(昭和25)年、宮城県生まれの69歳だ。

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 ほぼ同世代の東北人だが、菅首相と生島氏は長年、親交を深めてきたのをご存知だろうか。2人の出会いは大学時代に遡る。

 1969(昭和44)年4月、20歳の菅首相は法政大学の法学部政治学科に、18歳の生島氏も同大の経営学部に入学した。

 ちなみに菅首相が20歳で新入生となったのは、彼が苦学生だったからだ。

 67(昭和42)年に秋田県の県立湯沢高校を卒業して上京。最初は板橋区の段ボール工場に勤務したが、数か月で辞めた。

 菅義偉・衆院議員の公式サイトには「プロフィール」のコーナーがあり、そこに「すが義偉物語」が掲載されている。当時のことを、以下のように記している。

《「視野を広げるため、大学で学びたい」という思いを強く抱く。入学金を貯めるため、築地市場の台車運びなどのアルバイトもしながら、アパートに帰れば試験勉強という生活を2年間続ける》

(註:全角数字を半角にするなどデイリー新潮の表記法に合わせた、以下同)

偏差値のない時代

 努力が実って菅首相は法政大学に入学。キャンパスで生島氏との“接点”が生じるわけだ。そのエピソードをご紹介する前に、当時の世相をご説明しておこう。

 69(昭和44)年の18歳人口は約210万人。大学進学率は男性が24・7%、女性が5・8%だった。

 学生運動が激化した時期でもあり、この年の1月には東大安田講堂事件が発生した。特に受験生には東大の入試中止が大きな影響を与えた。

 首相は佐藤栄作(1901~1975)。スポーツは「巨人・大鵬・卵焼き」の時代らしく、プロ野球は巨人が阪急(現:オリックス)を下してV5。相撲は大鵬(1940~72013)のライバルだった柏戸(1938~1996)が7月に引退を表明した。

 大卒男子の初任給は3万1200円。この年に発売されたセブンスターの定価は100円だった。

 菅首相や生島氏が法政大学を受験して合格した頃、「学力偏差値」という概念は、まだそれほど知られていなかった。

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