妻のオナラに二人で笑えるようになった日──在宅で妻を介護するということ(第9回)

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「自宅で看取ることになるかもしれない」。そんな覚悟もしつつ、68歳で62歳の妻の在宅介護をすることになったライターの平尾俊郎氏。しかし、幸運なことに当初は意思疎通もままならなかった夫人は、自宅で目覚ましい回復を示していくのである。

 体験的「在宅介護レポート」の第9回である。

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【当時のわが家の状況】
 夫婦2人、賃貸マンションに暮らす。夫68歳、妻62歳(要介護5)。千葉県千葉市在住。子どもなし。夫は売れないフリーライターで、終日家にいることが多い。利用中の介護サービス/訪問診療(月1回)、訪問看護(週2回)、訪問リハビリ(週2回)、訪問入浴(週1回)。

昔のままの妻が戻ってきた

 2018年末、看取りを視野に入れ、葬儀の早割(事前に登録することで葬儀費用が格安になる)まで手配して始めた「在宅」だったが、3カ月もすると死の影はどこかに吹き飛んでしまった。女房の回復ぶりにはそれほど目を見張るものがあった。ついこの間まで、ケータイの呼び出し音が鳴るたびに、「ついに……」とビクついていたのがウソのようだ。

 喉元過ぎれば熱さ忘れる。暖かくなり、2019年の桜の開花予想が行われるころには、「車いすはまだ早いだろうか」「デイサービスはどこにしようか」など、もう前しか見なくなっていた。ここで当時、妻がどのような状況にあったか思い出してみたい。

 まずは頭の方。家に戻ったばかりのころは一日の大半は目を閉じていた。目を開いていてもぼんやりとどこを見ているか分からない状態で、声をかけるよりもしばらくはそっとしておこうという感じだった。それが1カ月もすると起きている時間が増え、しっかり焦点の合った目に変わっていった。

 簡単な言葉がスッと出るようになったのもこの頃だ。朝、おはようの声をかけると「オアオッ」と言い、大丈夫かと聞くと「アイヨーブ」と答える。経鼻経管栄養のチューブが喉に通っているので元気な時の彼女の声とはちょっと違うが、簡単な言葉のキャッチボールができるようになっていた。

 2カ月余り入院した千葉大医学部付属病院のMRI画像は、脳の萎縮とともに中枢神経を構成する脳幹部の一部にダメージがある事実を伝えていた。内臓や呼吸器なら、今後どれくらいの期間を経てどの程度まで良くなるか見当がつくが、脳の中の問題となると医師も確かなことは言えない。植物人間という状況も考えられたのだ。それは医師も、看護師も、もちろん私もびっくりする回復ぶりだった。

 女房に処方されたのは、「記憶力や思考力、判断力の減退を遅らせる薬」「うつ状態を改善する薬」「脳梗塞の後遺症やパーキンソン症候群を改善する薬」。これに「血糖値を下げる薬」「血中のアンモニアを下げる薬」を加えられ、朝夕、栄養剤を流す前に水に溶かして鼻の管から飲ませた。

「在宅」での医療行為はそれだけ。脳に効くクスリなんかあるのかと半信半疑でいたが、よくここまで戻って来てくれたと思う。訪問診療のドクターが神経内科(現・脳神経内科)が専門だったことが大きいと思う。脳神経内科は脳・脊髄・神経・筋肉の働きに詳しい。循環器や呼吸器系の医師の場合、ここまでのさじ加減は難しかったと思っている。感謝の一語である。

 聞くほうの回復はもっと進んでいた。脳に刺激を与えるため四六時中ラジオのFM放送を流していたのだが、時おりDJの話を理解しているふうに感じるときがあった。それを確信したときがあった。DJが肝心のスポンサー名をとちったのだ。その瞬間、彼女の頬が緩んだのを私は見逃さなかった。

 同じころ、こんなことがあった。おむつ交換を終えた訪問看護師に、「今日はどのくらいウンコ出ましたか」と聞くと、「お茶碗1杯くらい」と言うべきところをなぜか「ドンブリ1杯」と答えた看護師。私が、「えっ、ドンブリ?」と聞き返すと、看護師が訂正する前に女房がプッと噴き出したのだ。

 1日3回のおむつ交換の場面では、何度も面白いやりとりがあった。洗浄を終え、お尻全体をハンドソープで洗い、乾かし、ワセリンを塗り、仕上げに新しい尿取りパッドとおむつを装着しようとしたとき、オナラとともに勢いよくウンコを放出することがままあった。

「あっ、やりやがったなコイツ」

 洗浄前ならいくらしてもいいけれど、きれいにしておしまいというときにやられたらさすがに腹が立つ。すると、私の方を見ながらうれしそうに彼女は笑った。昔のままである。結婚したばかりのころ、遠慮してオナラをしない私に自分から豪快な一発をお見舞いするようなところがあった。そのままの彼女が戻って来てくれたことが、私には涙が出るほどうれしかった。

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