「異邦人」のヒットから40年 久保田早紀が久米小百合として音楽宣教師になった理由
「ヒットスタジオ」は苦手だった?
――あの曲のテーマについてあらためてお聞かせください。
愛ですけど、恋人同士のものではなく、もう少し大きなもので、国と国とか、友情とかでした。照れ性なので、「新宿で彼氏と会って」みたいな、私小説的な曲は作れなかったんですよ。
――デビューを遂げた時の心境は?
自分の曲をプロの方に聴いてもらいたいだけだった人間が、シンガーソングライターとしてデビューさせていただいたのですから、物凄く光栄でした。
けれど、オーディション合格からレコーディングまでの期間が短かかったので、実感が湧かず、販売促進部などの方から「おまえ、デビューは凄いことなんだぞ」と肩を叩かれても、どこかフワフワと抜けているところもありました。
芸能人になったという認識もなくて、デビュー後も平気で電車に乗って家に帰ったり、短大時代の友人とご飯に行ったりしていました。
レコーディングのために行ったスタジオでほかの有名歌手の方をお見掛けすると、「サインもらっておいたほうがいいかな」なんて思っていました(笑)
――「異邦人」は驚異的なセールスになりました。当時の気分は?
正直なところ、レコードが売れるということの意味が分からなかったんですよ。なにしろ最初に歌わせていただいた曲でしたので。どれほど凄いことなのか自覚がなかったんです。
当時の私が、デビューから数年目で、最初は1000枚しか売れなかったけれど、次は1万枚売れたというような経験をしていたら、天にも昇る気持ちだったんでしょうけど。
――音楽番組からも引っ張りだこになりましたが、「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)は苦手だったという逸話があります。どうして?
それには理由がありまして……。あの番組は大好きで、子供のころからずっと見ていたんです。けれど番組の冒頭で、ほかの歌手の方の歌をうたい、その方の紹介をしなくてはならなかったんです。
歌番組に出るだけでも心臓が口から飛び出しそうだったのに、先輩方の歌をうたい、さらに紹介するなんて……。考えただけで緊張してしまったからです。
――ということは「ザ・ベストテン」(TBS)なら平気?
ええ。なんとか。自分の歌を歌えばいいわけですから(笑)
――デビューから約2年後の1981年、キリスト教のプロテスタント教会で洗礼を受け、現在はバプテスト教会のメンバーです。その経緯は?
当時、取材などで曲作りの動機や音楽のバックボーンを尋ねられていたんです。あのころ、ニューミュージックの世界では「僕のポリシーはこうです」みたいなことを話すのが流行していたので、記者の方は私にも「何のために歌うんですか?」などと聞いてきました。
――どう答えたんですか?
私はたまたまオーディションに受かって、デビューさせてもらっただけですので、ポリシーや哲学のような大それたものはなかったんです。だから「ただ音楽が好きなんです」と答えました。
でも質問に答えられなかった自分をもどかしくも思いました。「私はこういう理由で歌います」と言えなくてはプロとして恥ずかしいと考えたんですよ。
それで自分の音楽のバックボーンは何かとフィードバックして考えていったら、子供のころ、教会の日曜学校に行っていたことに辿り着いたんです。賛美歌も好きでした。だから「教会音楽に戻ってみよう」と思い、入信したんです。
――1985年の結婚と同時に芸能界から引退。音楽宣教師になられたのは、いつからですか?
まず1988年に神学校に入りました。キリスト教について分からないことがたくさんありましたから。
――東京バプテスト神学校神学科とカーネル神学大学院博士課程(現代教会音楽専攻)ですね?
そこで宣教師の資格もいただき、音楽宣教師になったのは1990年代前半からです。
――キリスト教の教会なら宗派を問わず歌われているのですか?
はい。私の場合、プロテスタントの教会はすべて行かせていただきますし、親しい神父様のいるカトリックの教会でも歌ったり、ボランティアをさせていただいたりもしています。プロテスタント、カソリックという垣根を越えたいと思っているものですから。
――芸能界で商業音楽をやっていたころより今のほうが楽しい?
ええ。でも、商業音楽も聴くのは好きですよ。それと、歌わせていただく教会の側から、「プロフィールに久保田早紀と入れていいですか」と言われたら、お断りすることはありません。私の昔の名前を懐かしいと思って教会に来てくれる方がいたら、ありがたいことですから。リクエストがあったら、「異邦人」など久保田早紀時代の歌もうたいます
――今の生活は充実しているわけですね。
はい。音楽という字は「音が楽しい」と書くので、楽しまなくてはならないと思うんですけど、久保田早紀時代はスタートが大ヒットでしたので、気がついてみたら、「もっと売れないといけない」「もっと支持されなくてはならない」と考えていて、追い詰められていた部分がある気がするんです。
周囲からも常に「異邦人」を基準に評価されていました。だから私も「次は180万枚、あるいは200万枚売れないと評価されない」と考えているところがありました。
でも、歌うことはそうじゃないと気づかせてくれたのも教会だったんです。
――4月にご主人の実父である久米明さんがお亡くなりになりました。どんなお義父様でしたか?
もの凄く素適な方でした。まず、外と家で全く変わらないんです。しゃべり方まで。
舞台の上で表現することについて、いろいろな話を聞かせてくださいました。「こうしたほうが、声が通るよね」とか、「台本というものは読んではいけない」とか。
――これからの夢は?
宣教の仕事を続け、聖書の素晴らしさを伝えられたら、それで十分。日本はクリスチャンの方が少なくて、信者は全人口の1%以下なんです。
残り99%の方々はキリスト教の音楽というと、バッハとかヘンデルなどのクラシカルな音楽を連想するんじゃないでしょうか。
でも、今はクリスチャンミュージックを作る若い人がたくさんいるんです。ゴスペルを歌う方やボイストレーニングの先生をされている方もいます。
今はそんな若いアーチストの方をサポートする仕事もしていて、次の世代の方を応援したいと思っています。
週刊新潮WEB取材班編集
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