「周防正行」監督が語る「いい役者」の条件 本木雅弘がハプニングで取った行動とは…
セリフを覚えない役者の撮り方
二宮 ピンク映画で突発事故ってどういうことですか。
周防 たとえば、ひとくちに女優さんといってもいろいろいます。ピンク映画の場合、アフレコだから口さえ動いていればなんとかなるんだけど、セリフを覚えていてくれないとやっぱり苦労するんですよ。ある現場でそういう女優がいた。そのとき先輩の監督が何をしたかというと、セリフを全部裏にした。ようするに、彼女がしゃべるときは彼女の後ろから相手を撮る。相手の反応でセリフを感じさせる。そうするとアフレコ楽でしょ、口を合わせなくていいから。
二宮 すごい!
周防 ピンク映画ってそうじゃないと撮り終えられないんですよ。口を見せなきゃいいんだって発想になれるかどうかですよね。彼女にきちんとセリフを言わせるために正面から撮って何回もNGを出すなんてことはしないで、すぐに諦めて裏にしちゃえ、と。
二宮 すごいライブ感覚ですね。
周防 単にセリフを覚えてこなかっただけなのに、出来上がったものはものすごく斬新な演出に見える。
二宮 怪我の功名ですね。
周防 何かのアクシデントをいい方に持っていけるかどうか。これ、常にあるんです。
二宮 それでも思うように撮れないとか、しんどいことはないんですか。
周防 ありますよ。しんどくない映画なんかあるわけないじゃんと思ってるんで。しんどいのは織り込み済みです。
二宮 小説と同じか……。
周防 どんな世界だって自分の考えたようにはいかないじゃないですか。書いてみなきゃわからないことがたくさんある。こう言わせたくなかったのに、言わせるしかないとか。
二宮 あります。
周防 現場に行かないとわからないこともたくさんある。映画はライブ。そのことが身に染みていると、妥協の仕方が上手になるかもしれないですね。それが現実的な意味でのいい映画監督かもしれません。
二宮 妥協をいい方に持っていくのがうまい。映画監督というのはたいへんな仕事なんだということがよくわかりました。
選んだ小道具でラストシーンが変わった
周防 自分でも、よく映画監督になれたなと思いますよ。そりゃなりたいとは思ってたけど、客観的に見たらなれるわけないんだから。今みたいに1年に何人もの映画監督がデビューする時代じゃなくて、ひとりデビューしたらそれが大事件になるような時代だったんです。日本映画が超マイナーなときだったから、同じ時期に働いてた人でもうこの世界を去った人だっていっぱいいるし。
二宮 厳しいですね。
周防 あの時代のピンク映画の世代だったから、僕もチャンスを掴めたんだろうなって。3年くらい助監督やったら、「一本撮ってみる?」って言ってくれる世界だったんですよね。自分から売り込んだり、監督の座を奪い取るとかじゃなくて。裸さえ出てれば成立するという世界だったので、僕みたいに「俺が、俺が」じゃないタイプでも生きやすかった。
二宮 助監督時代はどんな感じでしたか。
周防 真面目でした(笑)監督が実現したいと思っていることに何とか近づけるようにと思って。僕は高橋伴明さん(高橋惠子の夫)に助監督にしてくださいと言ってこの世界に飛び込んだんですが、伴明さんは助監督に任せるタイプでした。ロケハンも行かず、俺はお前が見つけてきた場所で撮るよってよく仰っていたし、いろんなことを預けてくれた。シナリオには書いてなかった小道具をあえて選んで持って行ったら、その小道具を使ったラストシーンに変えてくれたこともあった。そういう幸せな体験もあって、撮影に参加する喜びを実感できましたね。
二宮 それでも、大学を卒業して給料1万5千円は、すごい。親御さんには反対されなかったんですか。
周防 本当に好きにさせてくれました。父親は戦争世代で飛行機乗りだったんですね。生きて帰ってきてからの人生はおまけみたいなもんだからって言ってて。僕についても完全な放任主義で、面と向かって何かを反対されたことはありませんでした。
二宮 映画監督になられた今となってみれば全てが必然に感じられる。人生って不思議ですね。
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