「命の選別」という「出生前診断」を巡る悲劇の結末 そして母親は死を選んだ
「楽になりたかった」
以前同居していた母親の叔父が、仙台北署から電話を受けたのは、今年の4月29日の昼過ぎのことだった。
「定義山(じょうぎさん)の山中の道のない場所に、目張りがしてある不審な車が止まっていた。朝、散歩している人がおかしいと気づいて通報した」
警察の人はそう言って、車のナンバーを照会したら、こちらの電話番号だったと話を継ぐ。
慌てた叔父は、母親の長男や姉に連絡し、皆で仙台北署に駆けつけた。後から、事件後に離婚した夫もやってきた。
警察署では医師による確認が必要だと言われ、しばらく待たされた。その後、ようやく会うことができた母親は病衣を纏い、きれいに笑っているような顔をしていたと長男には映った。
前日の夜、長男とサイゼリヤから出て別れた後、母親は三角油揚げが名物として知られる仙台市の定義山に行き、睡眠薬10錠とストロング系と呼ばれるアルコール度数の高いチューハイを飲んで、練炭自殺をしていた。
車の中には、携帯電話料金などの引き落とし分だけが残された預金通帳と、手書きの遺書が残されていた。実母や姉、義兄や姪などに対して、これまでお世話になったお礼などが几帳面な文字で綴られており、遺書は以前から準備されていたものであることを窺わせた。だが、最後のページだけ異様に乱れた文字でなぐり書きされていた。長男宛に便箋一面、〈ごめんなさいごめんなさい〉という文字で埋められていた。
そして遺書には次のような内容も書かれていたという。
〈私はもう楽になりたかった。がまんできなかった〉
何から楽になりたかったのだろう、そして何にがまんできなかったのだろうか。この言葉の真意について、長男はこう考えている。
「母は普段から楽になりたい、死にたいと言っていました。いつも一番苦しんでいたのは、弟を手にかけようとしてしまったことです」
「苦しむだけの生なら、楽にしてあげたい」と考えての犯行だった。しかし三男は命は助かったものの、母親が口を塞いだ後遺症のために口から食事がとれなくなった。より苦しい生を余儀なくさせてしまったのだと母親は罪悪感に苛まれていった。
「心の準備がほしかった」
三男は事件後、自宅から高速道路で片道2時間以上かかる別の県の長期療養できる病院に転院することになった。面会も月に1度程度で、あとは家族にも会えずに暮らしていた。そして、新型コロナウイルスによって、そのような面会も難しくなった。
出生前診断を受けられなかった不安や不満、難病の子どもを育てる困難、そして次男を失い三男を手にかけようとしたトラウマ――。
母親には気晴らしをしたり、笑うことができる時間もなくはなかった。だが、いつも「あの子(三男)が苦しんでいるのに私が楽しんじゃいけない」と話していたという。
「息子のことを手にかけようとした私が幸せになっちゃいけない。死んでお詫びする」
母親がそう言うと、長男はいつもこう返事をした。
「死んでもお詫びにならないよ」
それでも母親は訴えた。
「でも、こんなに苦しいのは嫌だ。お願いだから楽になりたい」
長男によれば、母はこうも言っていたという。
「結局あの子の命が助かったことが良かったかどうかわからない」
長男も複雑な思いを抱えている。
「たった一人で必死に生きようとしている弟は、家族にも会えずに寂しいだろう。少しでも幸せな時間を過ごしてほしいと願っています」
けれども、一方でこんな思いも抱いている。
「母があの時、出生前診断を受けられていたらどうだっただろうとも考えるんです。現実にどうしていたかはわかりませんが、難病の子どもだとわかっていたら、産まない選択をする母親も世の中にはいるかもしれない。少なくとも、母は産む前に覚悟ができていたと思うんです」
実際、母親は以前、私にこう心情を明かしていた。
「やっぱり(出生前診断を受けて)、難病を患った子が生まれてくるという心の準備がほしかったんだと思います」
長男が続ける。
「そうしたら今、母は死んでいなかったかもしれない。以前勤めていたクリーニング店で今も笑って働いていたかもしれない。でも、出生前診断を受けていた時の“選択肢”のことを考えてしまう自分を責める気持ちもあります。難病だろうとなんだろうと、小さな体で生きようと戦っている弟なのですから」
母親は毎日「死ぬ死ぬ」と長男に訴え、今年3月にも練炭を用意したことがあった。この時は親族がそれを取り上げ、事なきを得たのだが……。
長男の複雑な想いは、答えを探してループのようにぐるぐると回り続ける。
「親族や周囲の人は、『そういう運命だったんだ』と言うけれど、絶対にそういうことはないと思います。母の命は、救うことができたはずだった。なんでこんなに不幸にならないといけないんだろう。どこまで不幸になればいいんだろう」
彼は独身だが、病気の遺伝子を引き継いでいたとしても、相手も同じ遺伝子異常を持っている確率は非常に低く、そうでなければ、生まれる子が遺伝性難病を罹患することはない。
「だけど、僕は子どもは作りたくないです。病気が遺伝するかどうかよりもむしろ、自分の子ども時代がとてもつらかったからです。母のことは大好きですし、弟たちはとても可愛かったし、愛おしい。でも、母が難病の弟たちのことで苦しんでいるのを見るのはつらかった。母はいつも心配を抱えていて、100%楽しんでいるところを見たことはなかったし、僕も4歳からは甘えることができずにいつも寂しかった」
母親は若くして長男を産んだこともあり、二人で並んでいると「恋人みたい」と叔父はよく言った。だが、長男は対等な人間としてではなく、子どもとして思い切り甘えることのできる母親との時間がほしかったと振りかえる。
三男入院中の事件の舞台となった宮城県立こども病院産科科長の室月淳医師は言う。
「こういう痛ましいことを繰り返してはいけません。あらゆる出生前診断が命の選別だと批判されることに違和感を覚えます。どうしても育てるのは難しい人たちもいる。最後に子どもを育てていくのはその家族なのです。本人の決定を支援できる態勢が必要ではないでしょうか」
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